1 野仏

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 風に吹かれ、雨にぬれて、道端の草むらの中、大樹の木陰に今も生き残っている多くの野仏たち、苔むし、ほこりにまみれ、鼻が欠け、腕の欠け落ちたあるいは首のない哀れな仏たち。これらをながめると、腹立たしさと哀れさを感ずる。そうして未知の野仏を見出したときの喜び、そんなとき、野仏について色々のことを知りたいと思うが、野仏たちは何も語ってはくれない。しかし何かを私たちに教えたく話しかけるようにじっと見つめている。

 野仏の真の姿を探ろうとして、従来美術的な点から見ていた野仏を、信仰を通して、肌で野仏の語るところを読みとろうと考えた。

 庶民の信仰では、神仏の種類にかまわず、どんなことでもお願いし、そうして目ざすお願いに向かって自己の精神を高めようとした。それは一種の自己反省の働きとも考えられ、このような信仰も現在では念仏講のような、年寄りの趣味的な集まりとなった。その集まりのなかにも、かすかながら昔の信仰の名残りをうかがうことができる。

 また昔、野仏などが信仰された理由の一つに次のようなことが挙げられる。昔は現在のように医学が発達していなかったので、病気や怪我は庶民の大敵であった。一度病気にかかったり、怪我をするとたいへんで、そんな場合神仏にすがるよりほかに道がなかった。それが「いぼとり地蔵」であったり、「とげぬき地蔵」、「子育観音」、「道祖神」、「庚申様」であったりする。

 このように見てくると、野仏は庶民の中にある願望のすべてを具現したものだと言える。そうして、風邪の神や安産、子育の神などの中に民間信仰のすべてがあるような感がある。

 そこで現代を見ると、交通事故で首をなくした野仏や宅地造成で片隅に追いやられた野仏、また持ち去られる野仏等々。「石仏よ何処へ行く」と叫びたくなる。

 野仏が庶民に信仰されたのは、何といっても親しみやすさによるのであろう。童顔のお地蔵様が道端の辻に立っておられて、私共を送り迎えするようなお顔を見ていると限りない親しみを感じ、無心になって両手を合せて頭を下げたくなる。これが民間信仰と呼ばれるものではないだろうか。

 このような文化遺産を後代に守り引継ぐことも大切な現代人の責任だと考えられる。

 市内に散在する野仏の道祖神、十九夜塔、庚申塔、馬頭観音、地蔵尊、子安観音などのうち、いくつかを次に説明しよう。

馬頭観世音

所在地 千葉市川戸町坊谷津道三叉路(上段写真)

 川戸町は、旧東金街道沿いの町で、東金方面から千葉を経て江戸へ出る街道にあり、古書によると、康正元年(一四五五)東常縁が家来の侍大将濱式部春利に命じて築造させた街道だという。

道しるべになっている馬頭観音

 碑の銘文を書取って見ると、

(右側面)

   西 江戸ミち        願主 同〓

           寛延三歳午       (文字陰刻)

   東 とうか称ミち      十一月十七日

(正面)

(陽刻馬頭観世音像・頭部顔面欠損、六手のうち合掌の他の持物は数珠・剣・縄・不明)(角型 高 八六センチメートル 幅 四三センチメートル 厚 一八センチメートル)

(左側面)

   奉造立馬頭観世音

    下総国千葉郡川戸邑中       (文字陰刻)

 三叉路のガードレールの外側に泥まみれになっている。いつの供物か野菜が供えてあり、それと一〇円銅貨が二個あった。土地の人か通行人かが参詣していることであろう。今から二二三年前から、川戸邑中の人々によって祀られ、そして信仰され、現代もなお信仰されているということは、供えられているものから見ても考えられる。どんな人たちが信仰しているのか考えてもほほえましいかぎりだ。

道祖神

(正面)

    寛保四甲子年 石屋八郎右ヱ門      (額落し、舟型 高 五四センチメートル 幅 二七センチメートル)

   道祖神            (文字陰刻)

    正月吉日

不動尊

(正面)

    寛保三亥年十一月 日          (舟形 高 九七センチメートル 幅 三八センチメートル)

   (陽刻不動尊像・火炎)

    女方村甚八作

庚申塔

(正面)

   (  日瑞雲

   陽刻 庚申像・天邪鬼

     月瑞雲)              (角型 高 五八センチメートル 幅 二五センチメートル 厚 一一センチメートル)

(台石)

   (陽刻 三猿)

子安観音

(正面)

   (陽刻子安観音像・持物は蓮花、赤子)   (角型 高 六三センチメートル 幅 二八センチメートル 厚 一三センチメートル)

(台石)

    市場          (文字陰刻)

 以上四基の野仏は、市場町お茶の水の境内に所在するものである。

 猪鼻山への登り口の三ツ股に、欅の大木の根本から清水が湧き出ている。これがお茶の水と呼ばれている泉で、掲示板によると、「源頼朝が千葉城に立寄られた時千葉常胤が、この清水で苦茗(くみょう)を差上げた、それからお茶の水と呼ばれている」。と伝えている。また一説に『千葉大系図』の中に平良文の子息忠頼の項に「延長八年(九三〇)六月十八日下総国千葉郡千葉郷に誕生、此の所に清水が湧出したので、この水をもって産湯の水としたと伝う(後世湯花水と号す)。千葉氏の称ここに始まる云々」とある。

 この泉を湯花水と称し、千葉城の築城の際は重要なポイントであったと思われる。

 また不動尊が祀られているので、不動の水ともいう。

 不動尊、道祖神、庚申塔、子安観音の四基が祀られているが、このうち道祖神、庚申塔の二基は千葉大学病院の裏門附近から移されたという。

 この四基にいずれも、折々の花を供えて掃除をしている人があるようで、近所の人々に聞いてもだれがやるのか知らないといって、話してくれない。しかし現実には、掃除をして花が供えてあり、隠れて信心している人があるのだろう。子育観音には、一〇円銅貨が二、三枚供えてある。だれかが、講とか集団でなく、個人でひそかに信仰していると考えられる。

地蔵尊

所在地 千葉市松ケ丘町大網街道から宮崎町日本池へ出る道路左側角銘文などは次のとおりである。

(正面)

   これより右とけ道

   (陽刻地蔵尊像、持物は釈杖・宝珠)

   これより左とうかね道

(台石)

   為室貞昌信女逆修

    光誉寿心信女

    花清宗春信士

    日潤涼泉信女

  (文字陰刻)

 三ツ角の人家の石塀外に大谷石でかこまれた中に祀られている。

 昔は東金道と土気道との分岐点にあって、旅人に道標の役を果たしていた。

 四人の仏たちの菩提のため建てられた地蔵様で、初めは仏たちの家でお祀りしていたのだろうが、今では宮崎町の老人たちが縁日に参詣して、掃除をしたり花を供えたりしているそうだ。

 別に近所の婦人たちも縁日にいろいろの供物を供えて信心していると話していた。しかしそれが誰だということは、話してくれない。

 この地蔵信仰がどんなお願をするのか不明であるが、昔ながらの信仰が老人に根強く残っている。また若い婦人の心のどこかに信仰の芽生えがあるということがいえる。

 だれも私が世話をしているといわず、隠れて世話をしている。それに限りない親しみを覚えるわけである。

 お地蔵様は道の辻、寺の入口墓地の入口に立って、人々の安全と冥福を見守っている。

道しるべを兼ねた地蔵

 長沼町の仏母山駒形観音堂境内入口右側に、文政八年(一八二五)の子安観音を初めとして、一群の子安観音が祀られている。この土地には、現在も子安講が婦人たちによって残されている。毎月会合して子供たちの成長と妊婦の安産を祈願する会合がもたれて、今も実行されている。此のような講事(こうごと)は各地域に残っていて、取上げれば多数ある(第三項「講集団と古俗」参照)。