2 絵馬

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 古く神仏に馬を奉納する風習があった。生きた馬を奉納する代わりに、馬の絵を奉納したのが、絵馬の初めだとする説があるが、絵馬は本来祈願又は奉謝のために、奉納したもので、自分の願い事を描いて奉納し、神仏が忘れないように注意を呼び起させるのが本旨であったと考えられる。

 したがって、馬の絵を描いたものは、馬の安全を祈願したもので、絵馬の図柄は神仏によって、その図柄と効能がきまっていたと考えられる。絵柄を絵師に注文して、特別に描かせたり、絵馬屋の店先で自分の祈願に合うような絵馬を求めて、これを奉納する。

 ただし絵馬の中でも、有名な画家に描かせた額絵馬は、小絵馬とちがって、まったく社寺に対する奉賽(さい)の意から出たものである。

裁縫(さいほう)塾を描いた絵馬(越智(おち)町天満宮蔵)

 今一つ参拝記念、登山記念として、神仏の御利生に依って無事に道中できたことに感謝して、同行者連名で奉額したもので、図柄も道中の風景や武者絵を描かして奉納する。

 この額絵馬からその土地土地の民間信仰の対象を知ることができる。ある土地では、伊勢参宮の記念絵馬が大体を占めている。また別の土地では、大山、富士登山の絵馬が多数を占めている。近い処でいながら村人の信仰がちがうのは何を意味するのか。

 長沼町の元観音堂に奉納されている石絵馬は、馬の安全のために奉納されたと考えられ、その材料が石であることは市内では他に例を見ないものである。この御堂に百数十枚も奉納されていることは、いかに信仰が厚かったかをうかがい知ることができる。今も毎月十八日の縁日には参詣者が多数見られ今に至るまでその信仰が受けつがれていることがわかる。

 代表的な絵馬について若干の説明をしよう。

板絵馬著色武者絵

所在地 土気町縣(あがた)神社所蔵

       保管者 本寿寺

制作年代 天正七巳夘十二月廿六日(桃山時代)

 一面は牛若丸(九郎判官義経)、他の一面は弁慶が描かれている。この主従の話は『吾妻鏡』、『平家物語』、『義経記』などによって、古くから広く人々に知られてきたが、両者の最初の出合いと伝えられる京の五条の橋の上での情景が二面の柾板にかかれている。描線は力づよく、牛若の静と弁慶の動の対象の妙が巧みに描き分けられている。

 共に縦三五センチメートル、横四三センチメートル、厚〇・九センチメートル、いずれも上部に二個の鳩目がある。

 牛若丸の絵は能面をつけ、頭から白いかつぎをかぶり、右の手で日の丸の扇子をかざし五条橋の欄干(らんかん)上に立っている姿を描いてあり、橋のほかは群青で川浪を配している。裏面に次のような墨書銘がある。

 縣大明神奉捧

  判官之画像

 右所願成就如件

 天正七年巳夘十二月廿六日

  酒井 伯耆守

     康治敬白

 弁慶の絵は、鉢巻をして、胴巻を身につけ、右手に大長巻(大薙刀)を抱えて走る姿を描いている。裏面には次のような墨書銘が認められてる。

 縣大明神奉捧

  弁慶之画像

 右所願成就如件

  酒井 伯耆守

     康治敬白

 桃山時代の作で、奉納者の酒井伯耆守は、当時土気城主であった。

(『千葉県文化財総覧』)

石絵馬

 長沼の元観音堂には、石で造られた絵馬が奉納されている(上段写真)。祠の周囲に百数十余枚(昭和四十八年現在)が数えられるが、図柄は一様で、左方を向いた馬が躍動的に描かれ、縦二五センチメートル、横三五センチメートルくらいの長方形のものが最も多い。馬を立体的に丸味をもたせた陽刻画と、輪郭を陰刻ように彫りこんだものがある。

 古くは文久年間(一八六〇年代)のものもあり、新しいのは昭和初年の刻銘も見られる。農耕馬の所有者、畜産、食肉業者による古くからの信仰のよりどころとされている。

 なお、この地は長沼町の駒形観音(市内で唯一の露座の大仏が安置されている)が現在地に移される前の祭場であったともいわれる。

 奉納者は東寺山、西寺山、作草部、長作、畑、長沼、天戸、横戸の人々である。

 石造りの絵馬が一カ所に百数十枚も奉納されていることは珍らしいことである。

石絵馬(陽刻)
石絵馬(陰刻)