〝天女が降りてきて、松の枝に衣をかける……〟という羽衣の伝説は、日本の代表的な説話として、各地に存在している。この羽衣の伝説には三つのタイプがあるようだ。
一、老夫婦がいて、水浴びの天女の羽衣を取って隠し、天に帰れない天女をわが娘として育てて、娘のおかげで富を得る(『丹後国風土記』)。
二、羽衣を隠した漁夫と夫婦になるが、後に羽衣をみつけて天に飛び去った(『本朝神社考』)。
三、天に帰った女を追って、男も天へ上り、七夕の牽牛星と織女星になる(『朗詠抄』)。
『花見系図』という古書によると、千葉介常将は、天女と夫婦の契りを結んだことになっている。要約すると、千葉の湯の花(猪の鼻か)の城下に池田の池といって美しい池があり〝千葉(せんよう)のハス〟の花が咲いていた。
武家も百姓も集って見物でにぎわっていたが、ある静かな夜ふけに天人が降りてきて、傍の松の枝に羽衣をかけ、しばらくハスの花に見入っていた。それから城をおとずれ、大将常将と結婚し、翌年の夏ごろ無事に男の子を産んだ。このことが天皇の耳に入り、常将は参内して「千葉」の名をもらったという。
その後、天人は羽衣を着て天に帰ったが、常将が七五歳で臨終するとき再びあらわれ、常将を伴って一緒に上天していった。天人は子どもの常長へ、母の形見として〝夕顔の種〟一つぶを空から降らした。
常長はその種を庭に植え大切に育てた。見事な花が一輪咲き、やがて実を打ち割ってみると、中から父母の像が出てきた。それは観世音菩薩の姿であったので「夕顔観世音」と名づけ祭った。それが今の香取郡小見川町良文にある樹林寺の本尊だといわれる。
このように天女が降りてきて、子宝をさずけ、再び天に帰るという〝天人女房型〟は竹取物語のスタイルに似たケースであるが、千葉の羽衣の松の伝説で注目したい点は、千葉氏の系譜と結びつけていることである。
そこで天女と結ばれた常将の妻について考察してみると、『千葉大系図』に、「中原大外記師直女」とある。
この中原氏は、奈良県十市郡を本拠とした古来の名族で、朝廷につかえた殿上人(宮中の清涼殿に昇ることを許された特定の身分)であり、師直は、正五位を賜ったといわれる。したがってその娘も文字どおり雲の上の人――天人の子であったわけだ。
当時はまだ地方の豪族が中央の貴族と血縁を結ぶというは至難のわざであったことを思えば、天女と結ばれたという伝承も千葉氏初代の祖であるだけに、由来が解明されそうである。
現千葉県庁舎内東方に羽衣松と呼ばれた松の木があった。文化三年(一八〇六)の羽衣松の売買証文によると、羽衣松一本と地所(上畑八畝廿八歩)共金八両で裏仲町豊嶋屋忠蔵が市場町の吉右衛門から買取って居る。また、文化十四年(一八一七)小山田永好の日記に「田の中に五、六十坪ばかりの塚あり、その上に羽衣松あり、惜いかな枯れたり」とあって、その後明治二十年(一八八七)ころにも枯死して居り、今の松は昭和九年(一九三四)に移植されたもので、羽衣公園の川口元知事の銅像の脇にある。