市場町の亥鼻山のふもと、けやきの古木の根株に湧きつづける泉は、「お茶の水」とよばれ、その名の由来については数々の伝承をもっている。
傍の碑文に
治承の昔、千葉常胤卿、源頼朝公を居城亥鼻山に迎へし時、此の水を以て茶を侑む、公深く之を賞味せりと云ふ。爾来お茶の水と称し星霜八百年、清水滾々として今に渇きず。
また傍の千葉市の建てた案内札には
治承四年(一一八〇)の昔千葉常胤が源頼朝を猪鼻台上の居館にお迎えし、此の清水でお茶をわかし、おすすめしたと伝えられている。いつ頃か、お茶の水と称せられ、古文書にも紹介されている千葉名勝で羽衣の松、君待橋と共に、千葉市民の心のふるさととしていつまでも残して置きたい伝説の史跡でもある。
と記されている。
(一) すなわち、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は兵をたてなおすべく安房の国に逃げのび、猪鼻城に居を構えていた千葉常胤に招かれたが、この泉の水で茶をたて、挙兵の武運を祈ったというのである。
もともとの房総の地は、頼朝に関する伝説がいたるところにあり、その中には虚構も多い。
鎌倉の幕府の日誌とも見られる『吾妻鏡』や『鎌倉大草紙』には、頼朝が千葉に立寄ったということは一言も書かれていない。
そこでもう少し〝お茶の水〟伝説を考察してみると、
『吾妻鏡』に、治承四年九月四日に藤九郎盛長が頼朝の使として、常胤を猪鼻城に訪れ、九日に帰参、十一日に安房を出発し、十五日に五井(市原市)の浜辺で北条時政と会合し、十七日常胤の子息たちを引きつれ下総国府(市川市)に参会してより、十六日から十八日の記事が欠け十九日に上総の広常が参向した記事があるが、常胤、頼朝の対面が猪鼻城内で行われたか、街道で行われたか、記録の欠けている治承四年九月十六日、源頼朝が最も信頼し、父とたよった千葉常胤の居城で一夜泊ったとも考えられる。
『千葉盛衰記』には「苦茗(くな)を献(けん)ず」と見える。苦茗(くな)とは〝にがい茶〟〝番茶〟を指し、また謙遜して今の〝粗茶ですが……〟という意味である。また一説には〝くこ茶〟を指して苦茗ということもある。
ところで、当時千葉に茶が伝来されていたか、という問題がある。
日本の茶についての記録に、聖武天皇が僧百人を召して「行茶の儀」ありとみえるが、関東(鎌倉)への茶の伝来は、栄西が臨済宗とともに宋からの帰国によるといわれる。その時期は仁安三年(一一六八)であろうか。
頼朝が千葉に立寄った治承四年(一一八〇)九月十七日まで一二年しか経過していない。茶をたしなむということが当時の千葉に普及していたろうかという点、一段の研究を要すると思われる。頼朝の伝説とともにでき上がったとも想像される。
(二) 延宝二年(一六七四)の徳川光圀の手記『甲寅(こういん)日記』によると、「古城の山根に水あり、東照宮お茶の水といい伝、右の方松林あり、東照宮御旅館の跡なり」と書かれてある。つまり徳川家康が関東を支配したころに時折、千葉から東金近辺へ〝たか狩り〟に出かけた。このとき、のどをうるおすため千葉の御殿(現在の千葉地方裁判所付近)に立寄った際、この泉の水でお茶をたてたことから〝お茶の水〟とよばれることになったともいわれる(慶長十九年正月『駿府記』)。
ほかにも二、三の古書に「権現様お茶の水」と記されているのを見ると、歴史的にもかなり新しいことから、この方が真実性が高いのではないだろうか。
このお茶の水に関する古書に、妙見門前の祭事に奉仕する人々は、八月十六日未明、寒川浦の妙見洲に入って塩垢離(しおごり)とよぶみそぎののち、お茶の水の不動さまに参詣し、祭事に参加する習慣であったそうだ。
また、明治の初めまで、東金、片貝、横芝、成東方面から千葉の妙見様の祭礼に、三歳、五歳、七歳の子どもを連れ、馬の背を借りたりなどして参詣し、この不動様にお詣りをして、お茶の水を持ち帰り、この水で餅をつき、また赤飯をつくり、妊婦は安産を願い、親類縁者に配って子孫の繁栄を願ったと伝承されている。
この由来については、千葉家では忠頼以後、代々この水を産湯水に使用して、こどもたちの健康と武運長久を祈願することが慣例となり、後世まで踏襲されていたことによるであろう。
猪鼻城の城跡をみるとき、お茶の水を中心に築城されており、城内の人間にとって欠くことのできない水源として重要な役割りを果たしていたといえよう。