紅嶽弁財天と紅嶽清水も、千葉氏に全盛期をもたらした常胤公(第五代城主)にちなむ民間信仰の場であった。
この弁財天の祭られている二十五里(つうへいじ)は、総武本線都賀駅から西北方二キロほどのところにあり、東寺山宅地造成の進む中で、松林数十本の茂みが、かろうじて所在を示すぐらいの窪地で、濁った水たまりに杉の大木五、六本が下部を埋めつくされた枯死寸前の有様である。
伝承によると、千葉常胤はあつく神仏をうやまい、子孫の長久繁栄と福寿円満を祈願、ある夜、夢まくらに弁財天が現われたのに感激し、嘉応二年(一一七〇)五月一日、鎌倉弁が谷弁財天をこの地に移したといわれる。
その後、千葉氏の勢力が衰えてからは、紅嶽弁財天の社も荒廃の一途をたどったが、地元民がこの荒廃を惜しみ、戦前、紅嶽講を設立した。
当時の趣意書によると
弁財天は〝わく水も乳もゆたかにおさな子を守り育て、誓いなるかな〟と唱えられ、広く信仰され、ゆえに寒暑を問わず、風雨をおかし、至心に祈る人影の一日も絶えたることはない。近年ますますその数の増加するをみるとき熱誠をもって紅嶽講の設立を促す。
とある。
一昔前までは、鶴亀橋という小さな石橋のかたわらの泉は、そばでパチパチと手ばたきをすると泉は答えるように、もくもくと清水を湧かせた。この清水が湧くように、乳を多く与えてほしいとの念願から、産み月を迎えた妊婦からは安産の守り神としてあがめられていた。
また〝息災延命〟〝福徳財宝〟〝如意満足〟の心願がきっと成就されると信じられていた。
二十五里(廿五里・つうへいじ)の地名の由来は、
(一) 常胤が弁財天をこの地に祭ってから、重臣の通平寺氏が敵の侵入に備えて、とりでを構築し、ここを住まいにしていたと伝えられる。
(二) この地が鎌倉から二十五里というところから〝通平寺〟と〝二十五里〟が混然一体となり〝二十五里〟すなわち〝つうへいじ〟と呼びならわれたといわれる。