第二項 文化財の由来

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 私たちは、新らしい町の建設と、より高い生活を求めて、努力をかたむけると同時に、私たちの心のふるさとを忘れることはできない。

 昔から私たちの祖先が生活の中に、喜びや悲しみをこめて、生活の結晶としてのかがやかしい遺産の文化財、古くはその当時の生活や行動を物語る石器や土器や住居址、それから古墳などに残る副葬品、歴史時代に各般にわたり繰りひろげられた、その活動の遺産としての彫刻・絵画・建造物・古文書・民俗資料・史跡・天然記念物・路傍の碑石など、いずれも文化財としての先人の遺産である。

 これらの文化財を仲立ちとして、その時代その地域の祖先の生活及び人々の考え方を学び取り、このかがやかしい文化遺産を利用と鑑賞により、文化と生活を高め人生を深めると共に、これを大切に保存して、次代の人々に引継ぐことが、次代の人々に対する私たちの義務でありつとめであると考えられる。

 次に広範囲の意味から見た文化財について触れて見たいと思う。

 短刀(銘国俊)一口(大野達所有 幕張町五丁目一六六)

 長さ二八・七センチメートル、反り〇・二四センチメートル、元幅二・七センチメートル。作者国俊は来国行の子と伝えられているが、常に銘は来の字を用いず、国俊と二字銘を彫るので、同系の後代の来国俊と銘を彫るものに対して、二字国俊または略して二字と呼称し、弘安年代の作が現存している。(国指定重要文化財)

 この作の最も注目すべきは姿であって、身幅広く、寸延び、反りつきのこの型は鎌倉末期吉野朝時代に一般に流行しているのであるが、弘安年代のものとしては未だこの作のほかにはみることができない。いわゆる流行の先駆をなすものといえる。

 鍛えはいかにもよく、つまり地沸細かにつき鉄色が潤い美しく、刃文は表が互いの目に連れてこの工としては異風であるが、裏上半には特色とする小乱を見せ、帽子は乱れ込んで突き上げ気味に反り、総体に匂深く冴えて小沸交わり、表には素劔、裏には棒樋と腰樋がたがね深く彫られ、茎は生ぶで銘振り鑪目(やすりめ)が精察され、銘の上に愛染明王の像を刻んでいるのは稀有であって「愛染国俊」の称号はこれより起こっている。

 二字国俊在銘作の現存するものは、国行に比して遙かに少ないのであるが、なかでも短刀はこの作のほかには見聞せず即ち二字国俊在銘短刀はこの作一本だけである。

 この短刀はもと大閤豊臣秀吉の秘蔵であって、豊臣家滅亡後大閤物ということで徳川家に上り、三代将軍家光から加賀前田家に与えられて以来前田家の重宝として伝来したものである(『国宝刀剣図譜』『千葉県文化財総覧』)。

 半円方格帯神獣鏡一面(大宮正一所有 検見川町八六九)

 この鏡は、白銅製で、昭和十三年ころ大多喜町下大多喜の大宮氏旧宅裏山古墳から所有者自らが発掘したものである。

 直径一五・二センチメートル、鏡面は半径で反り二ミリメートル、紐の周囲に二二個の珠文帯を配し、内区には八個の環状乳を置き、交互に神獣をあしらっている。

 銘帯は、珠文地、半円、方格は各一二個あって、半円中央に一個の螺旋文をおき、放射状に四区をつくり、丁字形を四線及び直線で入れている。また方格円には四字宛の銘文を見るが磨滅著しく判読し難い。更に外区に絵模様を置き、その外に沈線文を配している。全体として、構図のとれた漢式鏡である。

 本鏡は県内漢式鏡中の名鏡で、おそらく四世紀ごろ中国(漢時代)において製作され、わが国に入り上総の地に来たるものであろう。

 当時この地の豪族が使用し後に副葬されたものと見られる。

 なおこの漢式鏡は千葉県所在古鏡最古の様式をしめし、文化史上貴重な遺物である(県指定有形文化財)(『千葉県文化財総覧』)。

 房総数学文庫(県立中央図書館 市場町二六)

 県立中央図書館にあるこれらの書物は、香取郡万歳村(現干潟町)の数学者花香安精とその一門が集収したものである。

 これらの書物は、大正年間、花香安精の子孫の家より、香取郡万歳村小学校に寄贈され、まもなく県立中央図書館に同小学校から寄贈されたものである。

 房総の地は、関流数学者の栄えたところで、この文庫は、関流を始め松永良弼らの伝書、花香安精の稿本を主とするもので、数学関係のものが三三七冊、暦法関係のものが一〇六冊、計四四三冊からなるものである。

 刊本は日本数学(和算)の普及を知る資料である。

 写本は江戸時代日本数学家の苦心のあとが語られており、数学史の観点からも貴重な資料といえる(『千葉県文化財総覧』)。

 戸塚揚心流流祖・同二代の墓(胤重寺 市場町三七)

 市場町胤重寺境内にある戸塚揚心流流祖戸塚彦介英俊及び彦九郎英美父子の墓で、千葉県指定史跡となっている。

 揚心流柔術は肥前国長崎の医師三浦揚心を開祖とし、その後豊後の阿部観柳がこれを極め、その甥江上武経が継承した。江上は同流中興の祖といわれ、江戸の芝赤羽に道場を置き門人千五百余人を数えた。その中に八世師範戸塚彦右衛門英澄があり、英澄の子は、戸塚派揚心流乱取りの祖戸塚彦介英俊という。

戸塚彦介の墓

 英俊は文化十年(一八一三)正月十九日、江戸西久保に生れ、父英澄より柔術の皆伝を受け、天保八年(一八三七)正月、父の死後その遺命により、江上流と称していた同流を、揚心流と旧名に復した。

 のち、講武所初代の柔術教授となり名声を挙げ、沼津藩主水野出羽守忠誠に仕えたが、明治元年(一八六八)水野家が上総国菊間(現市原市)に転封されるとこれに従い、菊間に移った。翌二年版籍奉還により、水野家を離れて、東京愛宕町に道場を開き、全国から三千人といわれる門人を集めて、近世乱取り中興の祖とあがめられた。

 明治十四年(一八八一)ころ千葉町寒川に寓居を定め、明治十八年(一八八五)千葉県令船越衛の知遇を得て、県立中学校、師範学校の柔道師範となり。警察署、監獄署の柔術師範を兼任した。

 明治十九年(一八八六)四月十九日病を得て、年七四歳でこの世を去った。

 彦介の死後は、長子戸塚彦九郎英美が父の偉業を継承して、明治三十六年(一九〇三)十一月大日本武徳会から最初の柔道範士の称号を受けた。

 初めて範士号を受けたのは、全国で二名だけのようで、講道館の嘉納治五郎とは、深い親交があり、講道館の試合会には、よく門人を貸してやったといわれている。

 千葉市通町(現中央一丁目)の千葉銀行の東隣高野文具店の裏にあった栄木屋製糸工場を借り受けて、道場に改造し、父とともに町道場を開き後進の指導に当たった。

 千葉寺の公孫樹(いちょう)(千葉寺町一六一)

 千葉寺は、坂東第二十九番の観音霊場として由緒ある寺である。現在は戦災によって本堂が焼失して仮堂であるため、境内中央に一大偉容を示すこの公孫樹によって、往時の面影をしのぶほか何物もないありさまである(県指定天然記念物)。

 公孫樹は、落葉性喬木、雌雄異株で開花は四月過ぎ、種子の成熟は十月ころ「ぎんなん」といわれ食することができる。

 古くから葉を「しおり」にすると紙魚(しみ)がつかないと、蔵書家には喜ばれる、材は緻密、柔軟で光沢美しく、加工容易で天井板、碁(ご)・将棋(しょうぎ)盤、張板、木魚、爼板(まないた)などに使用される。

 また、この木は雌樹が多く、多くの乳柱を垂れ、母乳の少ない婦人が乳柱を削(けず)り煎(せん)じて飲めば、乳が出るようになるというので、乳柱の下端が削り取られている。そのためか、今日では周囲に柵が立てられている。樹勢旺盛で地上三メートルから枝を張り、二二メートル四方に拡がっている。樹高三〇メートル、目通り幹囲八メートルある。

 寺伝によると元明天皇の和銅二年(七〇九)法隆寺再建の翌年僧行基のお成りのとき、この公孫樹も植えられたと伝承されている。

千葉寺の大いちょう

 鵜の森(大巌寺町)

 大巌寺の森には、昭和十年ころまでは、数百羽の「かわう」が住みついていた。巣は地上二〇メートルほどの高さにあり、木の枝や葉で作ってある。毎年十一月から七月にかけての繁殖期には、腿の外側や頸に白い毛があらわれる。卵は鶏卵大で薄水色をしている。二個から五個が普通で、四七日かかって孵化し、成鳥になるには三年かかる。「かわう」は「うみう」より小形で体力も劣るので鵜飼いには使われない。それゆえ鵜飼いに使われるのは、もっぱら「うみう」である。

 県指定天然記念物で、禁猟区となっている。

 大巌寺縁起によれば、この寺は徳川時代は、格式高い寺院で、駆込寺としても知られていたと伝承されている。

 村人は樹間に藁を敷いて、樹上より落とす糞を集めて堆肥とし、附近田畑の貴重な肥料とした。そのため、農村はくじ引で「わら」入れをする場所を定めている。一種の入会権とも考えられる。また鵜がくわえてきて落とす魚(鮒・鯉等の淡水魚)を持帰って食べたとも聞いている。したがって当時は山中で魚をとるという珍らしい風景も見られた。

 現在、寺の森は切りはらわれ、人家が密集してきて、今はその面影がない。

 斥候(ものみ)の松(大巌寺)

 大巌寺から西南約四百メートルの新興住宅地にクロマツの巨木があって、目通り幹囲五・二メートル、根廻り六・〇八メートル、樹高約一六メートル高さに比して枝張りよく、地元の人々は、「傘松」と呼んでいる。

 大正十一年八月二十四日の暴風で痛められ、その上昭和二十三年夏野火で焼け、樹容や美観が往時より悪くなった(県指定天然記念物)。樹の下に「寛政拾弐年庚申四月告日生実大巌寺村」と銘文の刻された馬頭観音の碑がある。

 それから南一〇メートルはなれ、小高い供養塚があり、巨木に仕えるように塚の上に三本の松が風情を添えている。斥候の松の樹齢は記録なく推定もできないが、伝承によれば、足利義明の小弓御所の物見に使用されたとも、また天正十八年徳川氏の侍大将本多忠勝が房総攻略のとき、これに応戦した生実の城主原式部大夫胤栄の部下が、この木に登って偵察したので、物見の松ともいうと伝承している。

斥候の松(昭和30年ころ)

 花島観音(天福寺 花島町六〇)

 『千葉県誌』『千葉寺研究』及び『花島山天福寺観音堂縁起』によれば、和銅二年(七〇九)僧行基東国巡釈の途中、桜の木の元木で、千葉寺に安置された十一面観世音を彫刻し、その余り木で、もう一体の丈七尺五寸の同じ十一面観世音を彫刻して、当寺に安置したという。初め谷雲山天福寺観音堂と称した。今の花島の観音堂がそれである。

 解体修理のとき胎内銘を発見、その銘文を記すると次のようである。

  仏師賢光弁君  右志者為師頂父母

 〓勧身心廣賢浄妙房 建長八大才丙辰十月二十一日

  俗性六人部民并橘氏女 法界衆生平等利益也

 建長八年(一二五六)は十月五日改元康元元年となる。千葉頼胤建長五年将軍宗尊親王の随兵を勤むと『吾妻鏡』にあるので千葉家の主は頼胤の時代である。

 仏像の頭部に釘穴跡が一六カ所あるところから見て、この仏像も初めは十一面観音像と推定できる。何かの事故で十面の顔が落ちたものと、考えられ、頭部に「にかわ」の跡が残っている。「かすがい」が三種類出ている。建長八年創像以後二回の補修があったことが考えられる。

 この観音像は、像高二二九センチメートル、良質のカヤ材を使った一木造で、四肢は別木を寄せ、下塗のあとがみられないので素木の像であったろうか。阪東三十三番札所の観音のうち滑河観音、笠森観音、千葉寺観音、日光の立木観音のように大きく、これが房総地方における一つの地方的流行であったかもしれない。

 この花島観音は、新阪東三十三番の札所に属している。旧阪東の観音にまねて、作られたものか、丈高く茫洋として、素朴な姿をしている。胎内銘の仏師賢光について、武田宗久の調査結果によると、仏師賢光は、鎌倉時代の正統仏師の系列には見当たらないが、印幡郡印西町松崎の多聞院に毘沙門天と両脇持三体の白木造りの立像を残している。銘文は正応二年(一二八九)六月とあって、花島観音の製作年代の建長八年は多聞院の毘沙門天より三三年前になり、毘沙門天が頗る円熟したできばえを見せている処から考えて、花島観音は覧光師の修業時代、二〇歳代の製作と見るべきであろう(県指定有形文化財)。

 大日堂の大日如来像(幕張町一丁目・堂の山)

 大日堂は、幕張町の宝幢寺の境外仏堂で、幕張町一丁目、堂の山にある。無住の仮屋でささやかな堂であるが、かつては独立した伽藍で、相当大きな堂であったと思われる。

 老人の話によると、或る年大暴風で倒れたので、その材料を取集めて今の堂に作り直したということである。このことから伽藍の大きさが推定できよう。

 如来像は、等身大より少し大きく、漆箔の座像(像高一・二三メートル)、玉眼を入れ金銅透彫りの宝冠を載き、胸に金剛界大日の定印である智挙印を結ぶ。眉目秀麗、体躯堂々として、気品があり、生気を失わない。衣の襞褶の線はやや規則的に近づいている。快慶の流をくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文は大日堂から不明。現在は宝幢寺に移されている(千葉市指定文化財)。

大日堂の大日如来

 宝幢寺の阿弥陀如来像(幕張町)

 もと、同地の阿弥陀寺の本尊であったが、明治五年廃寺となり、宝幢寺に奉遷したもので、縁起によれば、治承三年(一一七九)千葉常胤が海中より阿弥陀像二体を得て、大須賀原に仮屋を建立して安置した。のち、文治二年(一一八六)阿弥陀寺と海隣寺の両寺を建立して、各寺の本尊としたという。

 小さい像ながら相好円満、彫法整い中世の佳作と思われる。漆塗りで金箔のあとが残っている。総高四・六五センチメートル、台座・後背・両手共にのちの補修がみられる(千葉市指定重要文化財)。

 東光院と七仏薬師(平山町)

 平山町字谷津の鈴得山東光院大金剛寺は、往古は平山寺、広徳寺、東照院と呼ばれた寺で、境内に七仏薬師堂がある。

 東光院過去帳によると、代々住僧のうち、源邏法印、澄尊法印、澄秀法印の三代当時は広徳寺と呼ばれており、東照院と院号の改められたのは、後陽成天皇の天正四丙子年(一五七六)貞成法印のとき、天皇の御悩に際し、当院の薬師如来に御祈祷になり、御平癒になったので、勅錠によって五鈷鈴と鈴得山東照院大金剛寺と院号山号を賜った。のち元禄十五年壬年(一七〇二)三月、寺社奉行の命により、院号を東光院と変更をよぎなくされた。

 当町の谷津台の広徳寺跡と呼ばれる処から平安時代上期と考えられる布目瓦及び須恵器、縄文式土器の破片等が出土した。これは『千葉大系図』の千葉常将が当地に平山寺を創立したとする。伝承の時代的考証の裏付とも考えられる。一説には、『千葉伝考記』の常将の項に「この常将の代に、平の山寺を造営すという。平の山寺とは、武州秩父郡慈光山のことなり。慈光山の村名を平の村といえり」とあるので、常将の平山寺の創設は位置の点で一考を要する。

 境内薬師堂の本尊は、平良文の加護を受けた、上野国花園村府中にある七星山息災寺の七仏薬師如来を勧請したもので、秘仏として三三年目毎に御開帳を行ってきた。

 文安三丙子年(一四四六)本庄伊豆守胤村の記した「略縁起」を、元禄十丁丑年(一六九七)三月八日窪田忠兵衛朝明が筆写した写本の末尾に、宝永四十亥年(一七〇七)仲春二十九日「因火災寺院悉く及焼亡」と加筆してあって、薬師堂も焼失したと伝承するが、昭和三十六年薬師堂改修のとき発見された堂の天井竿縁の落書によると「元禄十丁丑年三月造立解時ノ住僧奥州出羽国新庄宮内之住東照院宥雄法印頭領大工伊藤外記云々」とあって、宝永四年の火災に薬師堂は焼けなかったことが証明できる。

 次に本尊七仏薬師の中尊は寄木造、あとの六仏は一木造りで、玉眼を入れた漆箔の座像で、中尊は等身大、左手に薬壺を持ち、右手は施無畏の印を示す。左右に並ぶ六体の諸尊は半等身大で、各々持物を異にする。鎌倉時代風で、流麗な襞褶、伏眼の表現、中尊以外の諸仏の胸の中央に卍字を配する点は、七仏薬師の信仰とともに藤原時代の名残を多分にとどめている。作者不明、背面に明暦元年(一六五五)の修理銘がある(千葉市指定文化財)。

東光院の七仏薬師

 このほか寺には、善光寺式三尊のうち、観音一体(木彫)、金銅毛彫飛天一面、木版五百羅漢像図一幅、安政年間の作という、法橋是秀の障壁画四枚等を所蔵している。

 等覚寺の薬師如来と月光菩薩(高品町)

 高品町の等覚寺は、元亀二年(一五七一)七月二日権大僧都宥朝が開基創建した真言宗の寺院である。現存する本尊は高さ三五センチメートルの座像で、脇侍のうち月光菩薩は七〇センチメートルの立像で、ともに寄木造、漆箔の小像である。

 薬師如来の胎内銘に「大旦那安藤勘解由殿高篠等覚寺僧都宥朝、奉造立薬師如来、元亀二年辛末七月二日、権大僧正宥朝、□□、志□常鏡作是、宥真、覚秀律師、宥覚、朝賀、常鏡」とある。

 波形に流れる衣文の処理等に、室町時代末期における宋朝様式を知る基本的資料である。

 銘文中高篠等覚寺とある高篠は村名で、今の高品町の前名である。

 本城寺泰師堂鰐口(中野町)

 酒井定隆は、寛正三年(一四六二)下総に来て、小弓城主原胤房のもとに寄寓したとする説(『山武郷土誌』)と、文明六年(一四七四)(根村正位 談)中野にはいったとする二説がある。

 定隆は長享二年(一四八八)中野城から土気城に移っているから、酒井氏の中野時代は、二六年又は一四年の長期間にわたっている。

 附近に壕と土塁の跡が認められるが、この城跡に、日泰に乞うて、一寺を建立、延徳元年(一四八九)六月十八日に竣工、本堂のほか泰師堂、三十番神堂、鐘楼、庫裡ができた。泰師堂に掛けられた鰐口がある。

 この鰐口の直径は三四・三センチメートル、青銅製で、蓮実文の撞座を中心にして、三条の帯線を等間隔に三重に配し、外側は二線、中は三線、内側は二線となっている。その銘文は、

  下総州湖河冷宮

     藤原

     鍋弥

     太郎

     光永

  延文六年辛丑五月十六日敬白

とあって、いろいろ調査をしたが場所寄進人等不明である。

本城寺の鰐口

 千葉市郷土館にある梵鐘(亥鼻町)

 昭和三十八年三月十四日、旧大日寺跡の通町公園の整備工事のとき、地下四尺くらいのところから、高さ三尺五寸口経二尺の梵鐘が出土した。

 鐘には次のような銘文が読まれた。

  下総国相馬郡安楽寺推鐘

     大勧進沙門栄金

     大旦那 尼覚妙

     大工 神家行家

 康永三年甲申十一月一日

   諸行無常 是生滅法

   生滅滅己 瞬滅為楽

 銘文の安楽寺は、茨城県龍ケ崎市川原代町小屋にある。天台宗の寺で、現住職渡昭範師の話によれば、当寺は遠く大同二年(八〇七)常陸大椽国香の冥福を祈願して、子の平貞盛が建立したが、その後承平時代戦火によって灰燼に帰し、現在の堂宇は明治三十三年(一九〇〇)に改築されたものである。

 当寺には、茨城県文化財の指定をうけてる鰐口がある。その銘に

 「総州相馬郡河原代安楽寺鰐口也。天台堅者賢海法印住之砌。文和二年癸巳(一三五三)六月十九日、大勧進沙門栄金」とある。

 附近の人々の話によると、寺とその附近二町歩ばかりが境内だった。小字小屋は昔陣小屋のあった跡だったので、この字名が残っているそうである。

大日寺跡より出土の梵鐘

 鐘について諸先生の話を綜合すると、一見製作時代が新しいように見えるが、銘の年代にまちがいはないという意見のようだ。そうしてごくありふれた形で、龍頭は葛飾八幡の鐘とよく似ていて、かえってそれより上作だということである。また全体的な形はすっきりしないが、幾分ローカル的な泥臭さが出ているとのことであった。

 大工神屋行家という鋳物師は、田舎の鋳物師で世間にあまり知られていない。茨城地方には同人の作品が、まだ隠されているかも知れないが、武蔵、相模、上総、下総、安房では同人の作品はほとんど発見されていない。

 この鐘には、下帯が省略されて、銘文の彫刻は力が弱いようだが、時代に合っているという点では諸先生の意見が一致している。

 鐘は四段階に分けて、鋳つがれて、鋳の肉の厚さもふちに近いところが厚く、駒の爪は二寸あり、上にいくほど薄く鐘座もさがっている。乳の間には、四つづつ四列の乳があり、その下に銘文が刻まれている。

 鐘の移動に付いてはいろいろ考えて見たが、戦利品として持ち帰ったと思われる。

 戦乱に明け暮れた戦国時代に、寺では、仏具の保護という目的で、土中深く埋められたのではないだろうか。それがいつか忘れられ今日まで土中に眠むっていたのが、たまたま昭和三十八年三月十四日仏の機縁に結ばれて、日の目を見ることができたものと思われる。

 千眼神社鰐口(鶴岡家 越智町勝負谷千眼下一、一二七番地)

 形状  径一四センチメートル

 材質  青銅

 銘文

   (表)

 上総国海北郡引田薬師別当長泉坊

  本願六郎杢当処旦那中

   (裏)

 天文十三季申辰十一月七日

 『千葉県地名変遷総覧』の四六~五二ページの資料から推定して、現在の市原市引田の蓮蔵院が薬師別当長泉坊だと考えられる。今は引田の観音で有名だが、昔は引田の薬師で有名だったそうである。

   千眼神社 石鳥居銘文

 上総国山辺郡越智村惣氏子中

   文化八未歳六月朔日

 栄福寺の釣燈炉(大宮町上坂尾)

 大宮町上坂尾の栄福寺に原胤栄の奉納した釣燈炉がある。

 桃山時代の黄銅製金箔付たがね透彫六角型で屋根に次の銘文がある。

 奉寄進下総国臼井庄本城妙見堂

 金燈籠者也原式部太夫平胤栄敬白

  天正二甲戌年三月二十五日

 長徳寺の梵鐘(富岡町)

 長徳寺の鐘楼にある梵鐘は、鐘身の高さ六六・六センチメートル、笠形の高さ三・七センチメートル、龍頭の高さ一五・八センチメートル、通高八六・一センチメートル、口径四九・六センチメートル、口辺の厚さ五・八センチメートル、重量約一二〇キロ、袈裟襷は鎌倉時代流行の基本的な形式を踏襲し、上帯の二個所に雲文を配し、下帯には二個所に簡単な遊離唐草文を施す点に特色がある。池の間の銘文中に、

 菅生荘中須賀県日吉山王宮鐘一口

と陰刻し、また別面に、

 下総国千葉庄椎名富岡山長福寺願主宥伝

 薬師如来鐘一口

 天文十四乙巳天十二月十七日

と追刻するところから、本鐘の由来伝承を知ることができるが、長徳寺の前名が長福寺であることは棟札から証朋できる。

 里人の伝承によれば、この鐘は、一名小便鐘と呼ばれている(千葉市指定文化財)。

 長徳寺の薬師如来像(富岡町)

 富岡山長徳寺は、新義真言豊山派の古刹で、本尊は室町時代の作と思われる、木製漆箔の不動明王立像であるが、境内の薬師堂に安置する薬師像は、桜の古木を用いた寄木造の座像で、像高一・一七メートル、肉身と見まちがう素肌の豊かな躰躯をしている。面相雄偉、眉長く弧形に流れ、胸に卍字を墨書し、肩から胸、腹にかけての張りのある肉付は量感にあふれ、左手に薬壺を持ち右手は施無畏の印を結ぶ、市内屈指の藤原様式を伝える尊像である(千葉市指定文化財)。

 稲毛の松林(稲毛町)

 稲毛町の浅間神社境内を含めて、丘の上約四、八一八坪のほとんどが松林で、眺望絶佳、市内の名勝地であった。

 この松林は、浅間神社創立以来次第に形成されたもので、ことに天正十七年二月十八日時の地頭大野勘解由左衛門が社領三〇石を寄進し、また寛文五年八月三十一日、時の地頭浅倉仁左衛門と相給であった石川土佐守の各領が境界争いから訴訟となり、両地頭が相談の結果入会地松林五反歩を浅間神社に寄進して武運長久を祈願したことによって、松林が保存されて来たものと思われる。

 維新の際上地して、現在は社領と国有地とに分けられている。

 金光院の両界曼荼羅(金親町)

 金光院の寺宝である胎蔵界、金剛界の両曼荼羅は、創建以来伝わるもので、これを納めて置く箱の蓋裏に次のような墨書銘がある(箱は最初のものではなく幾度か造り替えられ、その度に書き写されたと考えられる)。銘は次のとおりである。

 宗極大秘密金剛界胎蔵界大曼荼羅諸外道所不能如之也

              正応二年

        愛染山延命寺金光院寺入不出什宝也

              二月吉日

 これによると創建と同時に備付けられたと思われる。

 伝承によると、文化二年(一八〇五)に大修理を行い、その後も三〇年目くらいに小修理をしていたと伝えている。

 この曼荼羅は、金剛界、胎蔵界の二幅にわけられていて、いずれも幅四尺、長さ六尺くらいの大幅で、麻か絹の布地に描かれている。当寺では有力檀家の葬儀に祭壇に掛けて、死者の霊を弔う風習があり、檀家はこれに対して、曼荼羅料として、若干の布施を包むことが習慣になっている。

 これによって、檀家が寺に対する地位を誇示することにもなる。

 また一般檀家の場合は、三尊仏並びに十三仏を画いた四幅を祭壇に掛ける。しかし、この曼荼羅を持出すことは、年間三、四度程度で、これが適度の虫干にもなって、今日まで、保存できた一因とも考えられる。

 曼荼羅は、古来印度で秘法を行い諸神の来迎を求むるとき、悪魔の侵入を防ぐため壇を造ったことに由来している。

 高遠な仏教哲理は、一般には理解しがたいものが多いが、住持の言によれば、仏教は、「人々が愛し合い、助け合い、すべての生命を尊重すべきこと」を教え、「自分が幸福なると同時にほかの人々をも幸福にすべきである」という理想を、図に示し教えたのが絵曼荼羅である(千葉市指定文化財)。

金光院の金剛界曼荼羅

 恕閑塚(誉田町二丁目)

 誉田町二丁目にある小墳である。

 上総七里法華の信徒日経の主唱する不受不施の教義を信仰する信者を、江戸幕府は邪宗門として厳重に取締り禁止した。

 日経の弟子日浄が寛永十一年(一六三四)野田(現誉田一丁目)に本覚寺を創建、この寺を本陣として盛んに布教に専念したので、幕府は代官三浦監物に命じて、日浄以下僧俗六人を捕えて江戸に送り、寺を焼却させた。

 江戸で取調べの上八月下旬信徒にみせしめのため、街道引廻しの上東金から十文字ケ原に送られ、寛永十二年九月五日十文字ケ原で、はりつけの上斬首獄門台にかけられた日浄の首は、夜陰ひそかに信者が盗み取り、初め本覚寺境内に埋めたが代官の眼を恐れ、五日堂脇に埋め直し、杉の木をめじるしに植えられた。

 不受不施の教義は、明治の始めに解禁となり、初めて公許の宗教となった。

 江戸時代には、切支丹宗に次ぐ邪宗として厳禁され、長い間きびしい取締りと弾圧を受けていた。

 この教義は、日蓮宗の一派で、根本教義を、日奥は「一宗にあらざれば、国恩と雖もその供養を受けず」といっている。「他宗の供養を受けず、他宗に施さず」これが根本をなすものである。

 この宗教は、上総の七里法華・下総の多古町島の法華・中国の備前法華が代表的な集団である。

 五日堂の五輪塔(誉田町一丁目)

 日浄の首を埋めた場所には、寛永十二年九月五日の日付で五輪塔を建立したが、この五輪塔は役人の眼を恐れて土中深く埋められた。

 明治十一年七月五日墓地掃除の際、鎗田岩五郎が樹辺を掘れとの霊夢を感じたと話したとところ、山本又右衛門ほか一名も夢にお告があったというので、皆で掘ったところ小五輪塔を発見した。これが日浄、日徳の墓碑と判明したので杉の木の根本に祀った。

 銘文は次のとおりである。

(右側面) 寛永十二年九月五日

(正面) 妙法蓮華経蓮照院日浄本行坊日徳

(左側面) 左側 施主 源左ヱ門

かたわらに大正十三年甲子秋九月の殉教碑がある。

 共立病院遺跡(本町一丁目)

 明治七年七月千葉県令柴原和のあっ旋で三井組(当時の県金庫)及び千葉町有志の拠金により、千葉町本町一丁目(旧横町)に創立された共立病院の旧跡である。

 これは千葉市に西洋医学が導入された発端の土地で、西洋医学の発祥の地である(千葉市指定史跡)。

 公立千葉病院遺跡(中央町四丁目)

 明治九年十月千葉県は旧吾妻町三丁目(中央町四丁目)に病院を建設して、共立病院をここに移し、公立千葉病院と改称した。また医学教場を附設して医学教育を開始した。これが現在の千葉大学医学部の前身であって、その記念すべき旧跡である(千葉市指定史跡)。

 御伽草紙絵巻(文正さうし)(妙興寺野呂町)

 この絵巻は、一巻が一二面、二巻が一〇面、計二二絵面からできているが、順序が少し混同しているようである。

 室町時代から江戸時代初期にかけて、数多くの短篇の物語草紙が作られている。

 それらは、筆写本で残っている。絵巻奈良絵本のものが多い、江戸時代になって、それらの中から、絵入板本として、板木に起こされ、売り出され、江戸中期までに御伽文庫又は、御伽草紙として、発行されている。

 この絵巻は、原本を模写したものと考えられるが、奥書、筆者名、題名もない。しかしながら、手法及び描かれている人物、衣裳、家具などから見て、室町時代末期か安土桃山時代に描かれたものと考えられる。

 現在この「文正さうし絵巻」は数少ないものの一つで、同種の絵巻は数巻しか見当たらないそうである。

 千葉市内に在る絵巻物として、大宮町栄福寺所蔵の妙見縁起絵巻と、市場町智光院所蔵の菱川師宣の東海道道中絵巻とこの絵巻の三点だけのようである。

 東海道道中絵巻 菱川師宣作(智光院市場町)

 江戸における浮世絵の基礎をつくったことで知られる菱川師宣は、寛文・元禄にわたり活躍した町絵師で、生国は安房国平群郡本郷村(鋸南町)であるが、この東海道道中絵巻は、後代広重の五十三次道中絵などの先駆をなす作品として、注目すべきものと思われる。

 御茶屋御殿跡(御殿町)

 御茶屋御殿の所在地は、旧名千葉郡泉町(旧更科村中田小字宇津志野二五四番地)で、慶長十九年(一六一四)に御成街道と同時に、休息所として築造された御殿の跡で、街道と同じく土井利勝に命じて造営させたものであろう。

 一辺約百メートル余のV字型の空壕にかこまれ、壕の内側に土塁を築き、出入口は東西にあって、桝形につくられてあったようである。土塁の内側は現在畑になっていて、ここに御殿が建てられていたと考えられる。堀の外側は松林で、見通しがきかず、西北に「かまどやま」と称する個所があると伝承されている。

 御茶屋御殿の使用は、元和元年(一六一五)十一月十七日から同月二十五日まで東金で催された。徳川家康の二度目の鷹狩に使用された。

 その後、秀忠が七回、家光が一回鷹狩をしている。

 寛永十三年(一六三六)二月東金御殿の増築工事をしたが、たまたま日光廟の造営と島原の乱が起こったので、東金の狩は取やめになり、遂には、永く将軍家自身の出猟は断絶した。

 その後は鷹匠が取った鳥を「御上鳥」といって、宿送りで江戸城まで運搬させた。

 この工事に着手した年代については、慶長十七年とするものと、十九年とするものとあるが、手持資料によれば、十九年と考えられる。

 老人たちの語りつがれた口碑をとり集めて見ると、百人近い人数が列をつくって道中し、ことに御殿女中は、馬に「あかね色」のふとんを掛け、かいどり姿で馬に横乗に乗っての道中で、田舎の人は「立派なはなやかな行列であった」と、話していた。

 家康は、御殿に宿泊するときは、ひそかに外出して、金光院に泊ったとも伝えられている。

 現在は周囲の土塁と空壕が、行く人々に昔を物語るかのように静かなたたずまいを見せている。

 蘇我比咩神社(蘇我町)

 千葉市内における延喜式内の古社で、後世香取郡の香取大神宮との関係を生じたために、春日明神とも称したが、古くは蘇我氏の部民の奉斉した社であったとも推定できる。

 天照大神、蘇我比咩大神、応神天皇、御霊大神の四柱を祭り、千葉寺の末寺で今は廃寺となっている春光院を別当寺として、徳川家から御朱印地を寄進された。その朱印状の写が千葉寺に保存されている。

 駒形観音と露座の大仏(長沼町)

 駒形観音堂は、元禄十六癸未年四月大巌寺十六世然誉上人沢春和尚の開基になるものといわれ、堂前に露座の大仏がある。

 「長浪村(長沼村の誤りか)駒形大仏」と呼ばれ、元禄十六年四月江戸の薬種問屋野田源内とその一門、その他有志が講中を作り、導師沢春、願主鈍誉心愚で、鋳物師は橋本伊左衛門重広江戸浅草三間町の住人によって作られた。

 青銅製高さ二・三六メートルあり、伝承によれば、徳川家光が狩の帰途大日山の山中で、愛馬がなにかにつまづき傷つき死んだので、山中に葬って小堂を建立したという。今、奥の院に馬頭観音として祀られていて、長沼の本堂より創建年代が古いと村人に伝えられている。

 また馬が家光の身替わりになったので、身替観音とも呼ばれている。

駒形観音堂境内の大仏

 当村の渡辺家の所蔵文書によると、

 下総国千葉郡長沼新田の馬頭観音堂は永くあったが、支配の本寺がないので、名主組頭連印で、本寺末寺の関係を結んでくれるように依頼したので、今後公儀御法度、御触等当寺より申渡べく、その他浄土宗の法式そのほか永代相守る様、(後略)

   元祿十六年癸未四月十五日

                    大巌寺十六世

                        然誉沢春 花押

とある。また

 下総国千葉郡長沼新田の馬頭観音堂は昔は山野の辻堂であった。検見川村求法山善勝寺八世の廓誉閑隆が檀越の助力を得て一堂を建立し、常念仏を思い立って顧主となり、また導師を勤めた。元禄十六未の年大仏を建立し開眼入仏の規式を本山大巌寺にたのみ、支配を願いでたところ聞き届けられ愚僧まで免許の御墨付をくだされた。

   元禄十六未年六月

                     下総国検見川村前善勝寺八世

                     上総国八幡村称念寺十四世

                       快蓮社廓誉閑隆花押

 以上二通の古文書で見ると、初め山野の辻堂であったのを、大巌寺と本末関係を結び、その下寺となったものと思われる。

 当寺は古くは、駒形千軒といわれた元観音の地から現在地に元文年中に移されたという。

 大須賀代官旧宅(桜木町加曽利貝塚公園内)

 幕張町三丁目大須賀常信宅、江戸時代はこの辺は天領に属し、北町奉行所の与力給与地で、大須賀家は代官役を勤めていた旧家で、俗称「北の家」といい、家屋は元禄年間の建造という。一部に近年の改造のあとが見られるが、奥の部屋は比較的良く旧態を遺存し、武家風の書院造りで、正面の床の間、違棚、向って右の供待へ通じるくぐり障子、手前の絵襖、周囲の壁などに特色が見られる。

 なお、違棚上部の襖は谷文晁の筆、床の間の掛軸は蕪村の山水画である。

 同家は明治十五年五月明治天皇が千葉郡中野原附近における陸軍対抗演習統監のため行幸の際、御休息所にあてられた。

 大須賀家から千葉市に家屋を寄贈したので、今は桜木町加曾利貝塚博物館の隣りへ移築されている。

 登渡神社小壁嵌板彫刻(登戸三丁目)

 登渡神社は、正保元年(一六四四)九月五日、千葉家末孫登戸権之介平定胤が祖先追善のため、千葉妙見寺の末寺として、白蛇山真光院定胤寺を創建、境内に妙見社を祀り一堂を建立、定弁法印をして祭祀を司どらせたが、明治初年神仏分離の際に真光院を廃寺とした。時の住持は十四世興胤である。慶応二年(明治に改元)十二月二十六日妙見社を登渡神社と改めた。

 定胤という人はどんな人かというと、明瞭には判明しないが、祖先の追善のためとあるから、千葉家に関係ある人ということはできるので、『千葉系図』で見ると重胤の弟に七之介定胤と称する人があり、天和三丁巳年(一六一七)に生れ、慶安二年(一六四九)正月十一日三三歳で死去している。

 一説に、定胤は重胤の子とする系譜もあるようである。現在の社殿の改築は、安政年中浄財五百万両を集めて着工、嘉永三年(一八五〇)六月ころ完成したもので、葛飾郡八木村の大工紋次郎を棟梁として造営された。この人は安政二年(一八五五)千葉寺を建設した人である。

 社殿に取付けられた彫刻は、当時妙見寺再建に招かれていた信州諏訪の名工立川内匠和四郎富昌とその子専四郎琢斉の作品と伝承している。下図が神社に残されていたが今それが見当たらないようである。十二支の彫刻は長押上欄間の小壁板にはめこまれている。その中で、羊はなんらかの理由で、後年の作と掛け変えられたものである。このほか松に鶴のたばさみ、鳳凰のげぎよう、向拝柱は紗綾形彫がほどこされている。唐破風の向拝の蛙股がわりの唐美人の図、向拝のひとみの若葉と竜の彫刻、けた、紅梁受けの松と鷹、浪の籠彫、木鼻の獅子等いずれも、のみのあたり、図柄が妙見寺(千葉神社)の彫刻と比較して、非常に似ている。またひとみの若葉は立川流の特徴がよく出ていて、彫刻と組物の調和はすばらしい出来工合である。以上から見て、立川の作品に相違ないと思われ文化財として指定に価すると思われる。

 稲村三伯寓居(稲毛町一丁目)

 稲毛町一丁目七二四番地にあって、俗称薫元医者の家という。三伯は号で、本名は箭、三伯は宝暦八年(一七五八)鳥取県白羽町に鳥取藩士松井如水の三男として生まれ、のち川端町の同藩士稲村三杏の養子となった。

 青年時代長崎に遊び、シーボルトについて、医術を習って帰国し、しばらく鳥取藩に仕えていたが、たまたま江戸の大槻玄沢の著した「蘭学楷梯」というオランダ語学習の手引を見て発奮し、ただちに藩を辞して玄沢の「芝蘭堂」に入学して勉強した。フランソワ・ハルマの著した蘭仏辞典の翻訳を始め、寛政八年(一七九六)二月完成し、「東西韻会」と題したが、普通には「波留麻和解」と呼ばれ、蘭日対訳辞書の初めてのものとして、我国蘭学発達史上不滅の功献をした。その一冊が佐倉市の佐倉高校に保存されている。

 彼は完成後故あって、海上隨鴎と改め享和二年(一八〇二)から文化三年(一八〇六)まで、五年ばかり、稲毛村に仮寓したが、その後妻子を稲毛に残して京都に上り、蘭学塾を開いて多くの人材を育成して、京都地方の蘭学の発展に寄与した。

 文化八年(一八一一)五三歳で病歿した。

 聖宝寺と雨降獅子(あめふりがっこ)(椎名崎町)

 椎名崎町の聖宝寺は、もと聖法寺と称し、創建は詳しくは不明であるが、明治四十四年(一九一一)刈田子町の宝蔵寺を合併して、寺号を、聖宝寺と改称した。千光院の末寺で、本尊は阿弥陀如来、堂は、六間半に五間で、当寺には、雨降獅子と呼ばれる雨乞行事に使用した獅子頭がある。

 この雨降獅子について、村の古老の話を総合して見ると、獅子頭は行基菩薩の作と伝えられている。

 男女獅子ともに顔の幅一九センチメートル、長さ四〇センチメートル、前布後布の長さ各六〇センチメートル、前布は、男獅子は紫布、女獅子は赤布を用いてある。脊布は、男獅子は赤青白の色紙を細く切り、下から糊でだんだんと上の方へはりつけていき、女獅子は白赤の色紙で作られる。男獅子の角は本の枝の付いたものをつけ、女獅子は角に枝がない。顔は杉板でできていて、松の苔をはりつけ、ヒゲは糸状の苔をつける。男獅子の角と角の間に宝珠があってこれに梵字で何か書かれていたと伝承されている。

 雨降獅子と呼ばれているが実物は獅子には縁遠く、雨降竜と呼ぶのがふさわしいと思われる。

 大正三年(一九一四)の「御宝物虫干雨請挙行順序」という書類には、雨竜と書かれてる。

 次に最後の雨乞祭りを挙行した明治二十七年の模様を老人たちから聞いて見ると、日照続きで何日も雨がなく、水田も干上がってしまったので、村中相談の結果、雨乞祭を挙行することに決まり、行事に関係の人々は、七日間の「みそぎ」の行をし斉戒沐浴をして身を清め、聖宝寺で支度ができると、椎名神社の社前で、雨乞祈願の舞を舞い、それから区長(今の町会長)宅で舞い、次に刈田子町の高梨家に向い、高梨家では庭先に舞台を造り、この舞台で舞い終わると、一行は土足のまま高梨家の休憩所にあてられた奥座敷に上がり、祭檀に獅子を祀って休み、高梨家から、行列の人々とともに酒などをご馳走になって寺へ帰ったそうである。

   行列順序

 露払役  山伏二人

 先導役  天狗、猿田彦命二人

 笹すり役 子供四人か六人

 男獅子

 女獅子

 警護役  一〇人位

  笹すり役の子供は「すり竹」を持ってすり合わせる。

 獅子になる人は、白衣をまとい、獅子頭をかぶり、胸に小太鼓を付けて、たたきながら歌を唱え、舞いながら巡幸して廻る。

 次に警護役の人々は裃姿に一文字笠をかぶって続く、以上の役は、相続人によって奉仕される。雨乞に出して舞うので、雨降獅子と呼ばれている。

 雨乞祭をしても雨が降らないときは、神主が切腹したという話も残っている。

 しかし、この後の弥勒踊では神主が関係するが、獅子の巡幸には神主の参加はないから神主の切腹はどうかと思われる。

 獅子の巡幸が終わると、寺の庭で弥勒踊りが始まる。これは男子だけで踊るもので、中央に神主を置き、その周囲を輪になって踊りながら廻る。

 噺の文句は、神主が最初「鹿島神宮の屋の棟に、御幣が一本立って候、此れを神主不思議に思うぞよ、さあさあおんたち申せ」というと周囲の輪が「とこ千年、とこ万年弥勒がつづいて、ぼっちがととうで、焼飯をころがす」とこれをくりかえして回る。

 伝承によると弥勒とは「巳の日が三日ある月が六カ月ある年を弥勒年という、この年を弥勒年、豊年年という」と伝えている。

 これが弥勒踊に関係があるのかどうかは不明である。

 以上述べてきたところを見てくると雨乞祭も弥勒踊りも、いずれも豊年祭りにつながるものであることがわかる。

 この雨乞祭も、今では耕地の整理と水利工事の普及発達から雨乞の必要がなくなりだんだん亡びかけている。元来日照続きのときに降雨を神様に祈願する祭りのため、天候相手で、祭の日は一定せず、毎年行われるわけでもなく、祭の伝承は忘れがちであった。椎名崎町でも、明治二十七年以来虫干だけで、祭りは中止の形となっている。このままでは雨乞祭は亡びてしまうのではないだろうか。資料だけでも保存したいものである。