千葉市年表

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この年表中、各事項の下にある(系)等の符号は、それぞれ次に掲げる史料の略号である。
(系)=『千葉大系図』 (吾)=『吾妻鏡』 (小)=『小右記』  (今)=『今昔物語』 (備)=『読史備要』 (千)=『千学集』 (県外)=『千葉県史料 中世篇 県外文書』 (愚)=『愚管抄』 (元)=『元史日本伝』 (梅)=『梅松論』 (太)=『太平記』 (園)=『園太暦』 (綾)=『綾小路宰相入道記』 (鎌)=『鎌倉大草紙』 (道)=『太田道灌状』 (土)=『土気古城再興伝来記』 (東)=『東路の津登』 (相)=『相州兵乱記』 (越)=『越佐史料』

区分 西暦 年号 事項
原始 B.C.約三〇、〇〇〇 先土器時代
○前半期
 この時期の遺跡はまだ発見されていない。
B.C.約一〇、〇〇〇 ○後半期
 顕著な遺跡や文化層としては未確認。
 断片的ながら、この時期の石器類を採集。
 まだ明確な居住の痕跡は認められない。
 狩猟を中心に各地を移動していた。
 ・木戸作遺跡(掻器)
 ・大作遺跡(有茎尖頭器)
B.C.約八、〇〇〇 縄文時代早期
○前半期
 少数の遺跡が存在。住居址はまだ未発見。
 零細な土器片を含む文化層を見出すのみ。
 漁撈具が乏しく、貝塚もほとんどない。
 主に狩猟を中心に、各地を移動していた。
 ・向原遺跡(井草、夏島式土器)
 ・大野遺跡(井草、夏島式土器)
○後半期(主に茅山式期)
 にわかに遺跡数が増加し、規模がやや拡大、炉穴や住居址など居留の痕跡が明確となる。
 貝塚を伴なう遺跡がにわかに顕著となる。
 全体的に定着性が乏しく、分布も散在的。
 ・鳥込貝塚(地点貝塚、茅山式炉穴群)
 ・向の台貝塚(地点貝塚、茅山式住居址、炉穴群、人骨群)
 ・鶴牧貝塚(地点貝塚、茅山式土器、炉穴群)
B.C.約五、〇〇〇 縄文時代前期
 早期末から遺跡数はほとんど増加していない。
 遺跡や貝塚の規模がやや大きくなる。
 漁撈活動は顕著でなく、主に狩猟に依存。
 集落は分散的で、定着性に乏しい。
 一方、点在貝塚を伴なう集落が出現。
原始  貝塚文化の生成期
 ・谷津台貝塚(点在貝塚、関山式土器)
 ・荒屋敷西貝塚(点在貝塚、諸磯式土器)
 ・木戸場貝塚(点在貝塚、諸磯式土器)
 ・辰が台貝塚(点在貝塚、関山式土器)
B.C.約三、〇〇〇 縄文時代中期
 遺跡数が前期の約四倍に急増、規模も拡大。
 竪穴住居址や埋葬人骨が群集する。
 貯蔵用大型土器、貯蔵穴、埋め甕が盛行。
 大型集落が発達し、にわかに定着化する。
 漁撈活動が活発化(漁撈用具の盛行)。
 馬蹄形や環状の大型貝塚が出現する。
 貝塚文化の開花期
 加曽利貝塚出土加曽利E式炭化物の年代測定(B.C.2,840±80)
 ・廿五里南貝塚(馬蹄形貝塚、加曽利E式住居址、人骨埋葬)
 ・すすき山遺跡(加曽利E式住居址群)
 ・荒屋敷貝塚(馬蹄形貝塚、阿玉台、加曽利E式土器)
 ・加曽利貝塚(環状貝塚、加曽利E式住居址群、人骨埋葬群)
 ・月の木貝塚(馬蹄形貝塚、加曽利E式住居群)
原始  ・菱名貝塚(馬蹄形貝塚、加曽利E式住居址群)
 ・長谷部貝塚(馬蹄形貝塚、加曽利E式住居址群、人骨埋葬群)
 ・蕨立貝塚(点列馬蹄形貝塚、加曽利E式住居址群、人骨埋葬群)
B.C.約二、〇〇〇 縄文時代後期
 遺跡数が中期の一・四倍に増加。
 集落規模が拡大し、地域ごとに集中化する。
 土器が小型化・多様化し、機能的に分化。
 装身具、土偶、石棒など特殊遺物が豊富になり社会規制の複雑化を暗示している。
 網漁法による漁撈活動が活発化。
 特に大型貝塚の発達は他に類例がない。
 貝塚文化の最盛期。
 加曽利貝塚出土、加曽利B式炭化物の年代測定(B.C. 1,680±90)
 ・長作築地貝塚(馬蹄形貝塚、堀之内、加曽利B式土器)
 ・草刈場貝塚(馬蹄形貝塚、加曽利B式土器、安行Ⅰ式土偶、堀之内式甕棺)
 ・加曽利貝塚(馬蹄形貝塚、加曽利B、安行Ⅰ式住居址群、堀之内式甕棺、人骨埋葬群)
 ・矢作貝塚(馬蹄形貝塚、堀之内、加曽利B式土器、堀之内式甕棺、人骨群埋葬)
 ・誉田高田貝塚(馬蹄形貝塚、堀之内、加曽利B式土器、人骨埋葬)
 ・野呂山田貝塚(馬蹄形貝塚、堀之内、加曽利B式土器)
 ・六通貝塚(馬蹄形貝塚、堀之内、加曽利B式土器、人骨埋葬)
B.C.約一、〇〇〇 縄文時代晩期
 遺跡数が後期の約八分の一以下に急減。
 規模も零細、住居址や人骨の発見が乏しい。
 祭祀土器、装身具、石剣、土偶などが豊富。
 社会規制がますますきびしくなる。
 漁撈活動が衰微し、狩猟がむしろ活発化。
 貝塚もほとんど消滅。集落が分散的になる。
 貝塚文化の消滅期。
 ・犢橋貝塚(安行Ⅲa式土器)
 ・園生貝塚(安行Ⅲa~Ⅲc式土器)
 ・加曽利貝塚(安行Ⅲa~Ⅲc式土器、竪穴住居址、人骨埋葬群)
B.C.約三〇〇 弥生時代前期
 関東地方以北では、まだ縄文時代の終末期にあたり、市内では、この時期の遺跡は未発見。
B.C.約一〇〇 弥生時代中期
 少数ながら、この時期の遺跡が存在。
 土器文様や埋葬法に縄文時代の伝統が残存。
 遺跡分布が散在的で、遺物の出土量が零細。
 須和田式期に墳墓があるが集落址は未発見。
 集落址が発達するのは小田原式期から。
 当時の集落は小規模で分散的。
 ・新田山遺跡(墓址、須和田式期)
 ・中の台遺跡(墓址、須和田式期)
 ・星久喜遺跡(集落址、小田原式期)
 ・大森第二遺跡(集落址、小田原式期)
A.D.約一〇〇 弥生時代後期
 遺跡数は少なく、分散的、その規模は小さい。
 明確な住居址の発見例はまだない。
 遺物の出土例乏しく、具体的内容は不明。
 ・城の腰遺跡(久が原式土器)
 ・亥鼻遺跡(久が原式土器)
 ・弁天台遺跡(前野町式土器)
 ・大久保遺跡(前野町式土器)
 ・上の台遺跡(前野町式土器)
原史 A.D.約三〇〇 古墳時代前期
○古墳
 東京湾岸に偏在し、きわめて数が少ない。
 副葬品は呪術的色彩が濃い。
原史  まだ地方豪族の拾頭は明確ではない。
 千葉市域は古東海道系統の文化の伝播路線であった。
 ・大覚寺山古墳(前方後円墳、五世紀前半)
 ・七廻塚古墳(円墳、木棺直葬、鏡、石釧、滑石製模造品多数、臼玉、太刀、剣、鉾、鎌、五世紀中ごろ)
○集落址
 内陸部にも分布するが、沿岸地域にやや偏在。
 住居址の規模が比較的大きく不統一。
 住居址内にカマド、貯蔵穴を持たない。
 集落内の戸数も少なく、規模も小さい。
 存続期間も短かく、断続的である。
 谷津田に面する台地上に立地。
 広大な台地部を背景にして畑作を開始する。
 集落数が少なく、豪族の拾頭を促がすべき生産力に乏しい。
 ・宮崎第一遺跡(集落址、五領式期)
 ・宮脇遺跡(集落址、五領式期)
 ・星久喜遺跡(集落址、和泉式期)
 ・大森第一遺跡(集落址、和泉式期)
 ・大森第二遺跡(集落址、和泉式期)
 ・上の台遺跡(工房址、和泉式期)
A.D.約六〇〇 古墳時代後期
原史 ○古墳
 古墳の数が急に増大し、群集化する。
 大きな支谷に沿って内陸奥部まで分布。
 前方後円墳、円墳、方墳、横穴など多様化。
 木棺直葬、横穴式石室、組合式箱形石棺など、内部構造も多様化する。
 墳丘の規模は小型化する。
 木棺直葬が一般的、主体部の位置が不定。
 箱形石棺では追葬が多く、家族墓的色彩が強い。
 終末期に、方形周溝状遺構が出現する。
 ・へたの台古墳群(円墳群、鬼高式期)
 ・にとな古墳群(円墳群、鬼高式期)
 ・中原古墳群(前方後円墳群と円墳群、人物埴輪、鬼高~真間式期)
 ・兼坂古墳群(方墳群と円墳群、鬼高~真間式期)
 ・椎名崎古墳群(前方墳円墳と円墳群、人物埴輪、鬼高式期)
 ・舟塚古墳群(前方墳円墳と円墳群、鬼高式期)
 ・小食土横穴群(横穴群、国分式期)
○集落址
 急激に遺跡数が増大し、規模が拡大する。
 内陸部にも発達し、市内全域に分布。
 大型集落は沿岸部に偏在する。
 集落内の戸数が増加し、集落が定着化する。
 住居址内にカマド、貯蔵穴が出現。
 住居址が小型化し、規模が平均化する。
 同一台地上に古墳群と共存し、墓域との区別が厳密ではなくなる。
 住居内に製鉄址を伴なう集落が出現。
 周辺を溝で囲む環濠集落が出現。
 ・大森第一遺跡(鬼高・真間・国分式期)
 ・大森第二遺跡(鬼高・真間・国分式期)
 ・にとな遺跡(鬼高・国分式期)
 ・上の台遺跡(鬼高式期)
 ・稲城台遺跡(鬼高・真間・国分式期)
古代 六四五 大化元年 蘇我氏を滅し孝徳天皇のもとに新政府を組織する。
東国の国司らに土地・人民の調査を命ずる。
六四六 同 二年 大化改新の詔を発布し全国を国、評、里に分つ。
 東国国司の政績を評定、屯田を廃止、薄葬を命ずる。
品部の収公、班田収授を命ずる。
六四七 同 三年 私地私民の制を禁止する。
六五二 白雉三年 ○班田収授の法を施行する。このころ浜野町付近に条里制を施す。
六七〇 全国に戸籍(庚午の年籍)を作る。
六七二 壬申の乱起こる。
六八三 諸国の境界をきめる。
六八四 諸氏の姓を改めて八色の姓をきめる。
六九四 藤原京に遷都する。
六九八 ○下総に大風あリ家屋を倒す。
七〇一 大宝元年 ○房総に軍団を置く(葛飾・市原・安房)。
七〇二 同 二年 ○下総に大風あり、家屋を倒す。
○関東五ケ国に飢饉起こる。
七〇九 和銅二年 ○房総に悪疫が流行したので朝廷は薬を下賜する。
○僧行基千葉寺・天福寺を建立したと伝える。
七一〇 同 三年 平城京に遷都する。
七一五 霊亀元年 ○里を郷と改称する(千葉郡は千葉、山家、池田、三枝、糟〓、山梨、物部の各郷となる)。
○上総、下総等六ヵ国の高麗人一、七九九人を武蔵国に移し、高麓郡を置く。
七二九 天平元年 ○僧行基妙見宮を上野国花園村に建立と伝う。
七三七 同 九年 ○按察使兼鎮守府将軍大野東人らは、上総、下総等六カ国の騎兵千人を率い、山海両道より蝦夷征伐に向う。
七四一 同一三年 諸国に国分寺・国分尼寺建立の詔を発布する。
七四三 同一五年 墾田の永代私有令を発布する。
七四四 同一六年 ○椎名崎町熊野神社創建と伝う。
七四六 同一八年 ○下総地方干天のため、いなごの害甚だしい。
七五七 天平宝字元年 ○大日寺創建と伝う。
七五九 同 三年 ○坂東八カ国の浮浪人二千人を出羽国雄勝の柵戸とする。
古代 七六二 天平宝字六年 ○下総地方干天のため不作。
七六五 天平神護元年 ○下総等六カ国干害になやむ。
七六九 神護景雲三年 ○下総国井上・浮嶋・河曲三駅、交通量多いため中路に準じ、駅馬一〇匹を置く。
七七四 宝亀五年 ○検見川町広徳院創建と伝う。
○下総国の飢饉に対し、救恤品を下賜する。
七七六 同 七年 出羽国の反乱に際し、下総国の騎兵は征討軍の主力となる。
○安房、上総、下総、常陸国に兵船五〇隻を造らせ陸奥国に送る。
七七七 同 八年 ○下総国などから軍兵二百名を出羽国に送る。
○上野国群馬郡、美作国勝田郡の各戸五〇烟を河内国の妙見寺に施入する。
七八〇 同一一年 ○蝦夷征伐の兵糧として下総国に六千斛の供出を命ずる。
七八一 同一三年 ○下総国凶作のため飢饉に苦しむ。
○安房・上総・下総国など穀一〇万斛を陸奥の軍所に送る。
七八五 延暦四年 ○下総地方に大風あり、農作物に被害甚だし。
七八八 同 七年 ○東海、東山、坂東諸国の歩騎五万二千八百余人を徴発し、来年三月までに多賀城に送るよう命ず。
七九二 同一一年 ○軍団の兵士を廃し健児を置く。安房三〇人、上総百人、下総一五〇人。
古代 七九四 延暦一三年 平安京に遷都する。
八〇四 同二三年 ○上総、下総ほか三カ国に命じ、糒(ホシイイ)一万四三一五斛、米九、六八五斛を陸奥国小田郡中山柵に送る。
八〇五 同二四年 千葉国造大私部直善人外従五位下を授けらる。
○下総国印旛郡鳥取駅、埴生郡山方駅、香取郡真敷・荒海駅を廃止する。
八〇六 大同元年 ○外従五位下千葉国造大私部直善人を大掾となし、参議従三位紀朝臣勝長を兼下総守とする。
○武石町真蔵院・幕張町宝幢寺創建と伝える。
八〇七 同 二年 ○『古語拾遺』完成。安房・上総・下総の国名の由来を誌している。
八〇八 同 三年 ○稲毛町浅間神社創建と伝う。
八〇九 大同四年 ○前上総介石川朝臣道成・大掾千葉国造大私部直善人ともに本位を授く。
八一二 弘仁三年 ○このころ土気町極楽法寺建立と伝う。
八二四 天長元年 ○平山町産土神明社建立と伝う。
八二六 同 三年 ○上総、常陸、下野を親王の任国とする。
八三五 承和二年 ○上総、下総など関東七カ国に勅して一切経の書写を命ずる。
○下総国凶作のため朝廷これを救う。
○勅して東海、東山道に布施屋を建つ。
八三八 同 五年 ○伊豆大島噴火、下総地方連日降灰する。
八三九 同 六年 ○再び上総、下総など関東七カ国に勅して一切経の書写を命ずる。
八四三 承和一〇年 ○上総、下総、安房など一八カ国飢饉のため救恤品を給う。
八六六 貞観八年 ○下総地方干天のため凶作。
八六八 同一〇年 ○宇那谷町に大聖寺建立と伝う。
八七〇 同一二年 ○新羅人僧香嵩、沙弥伝、僧関解、元昌、巻才を下総国に配流。
八七五 貞観一七年 ○下総国の俘囚丸子廻毛(つむじげ)ら叛乱する。
八八六 仁和二年 ○良文生れる(系)。
八八七 同 三年 ○安房、上総、下総に強震。
八八九 寛平元年 高望王平姓を賜わり上総介に任ぜられる。
九〇二 延喜二年 ○初めて荘園整理令を下す。
九〇四 同 四年 ○下総国岡田郡を改め豊田郡とする。
九二三 延長元年 ○良文、勅令によって東国の逆賊を討つ(系)。
九二七 同 五年 ○『延喜式』によれば千葉郡に寒川神社・蘇賀比咩神社あり。
九三〇 同 八年 ○平忠頼下総国千葉郡に生れると伝える(千)。
九三一 承平元年 平良文上野国染谷川に平将門と戦い妙見の加護を受けたと伝える(千)。
○平将門、叔父下総介良兼と不和になる。
九三三 同 三年 平将門、叔父国香を殺す。
○前常陸大掾源護の訴により、将門を召す。
九三五 同 五年 ○平良文上野国妙見寺の妙見尊を拝し、わが家の武運長久を祈願したと伝える(千)。
九三七 同 七年 ○源順『倭名類聚鈔』を編す。下総国千葉郡に千葉・池田など七郷を誌している。
九三九 天慶二年 ○平将門下野、上野、武蔵、相模を攻略し自ら新皇と称す。(天慶の乱起こる
九四〇 同 三年 平将門の乱を平定す。良文は将門の旧領を賜わり下総・上総・常陸介に任ぜられる(系)。
九四一 同 四年 ○千葉妙見宮の元旦祭御神楽の儀初めて行われる。
九五二 天暦六年 ○平良文死す。六七歳(系)。
九七五 天延三年 ○平忠常生れる。上総国大椎城に居る(系)。千葉氏を称した(備)。
九八八 永延二年 ○金剛授寺尊光院に薄墨の倫旨を賜う。
一〇〇〇 長保二年 ○平忠常北斗山金剛授寺を建立と伝う。
一〇二〇 寛仁四年 ○前上総介菅原孝標上総国府を発し京に向って出発する(『更科日記』)。
一〇二八 長元元年 ○平忠常上総国府を占領す(長元の乱起こる)。
一〇二九 同 二年 平忠常追討の命を平直方に下す。
一〇三〇 同 三年 ○平直方を召帰し、改めて甲斐守源頼信に追討を命ずる。
一〇三一 同 四年 忠常、源頼信に降伏する(系・小・今)。
○忠常、美濃国蜂屋庄で病死。五六歳(系)。
一〇五一 永承六年 前九年の役起こる。源頼義これを討つ。
一〇六二 康戸五年 ○千葉常長前九年の役に源頼義に従い戦功あり。
一〇六九 延久元年 ○後三条天皇記録荘園券契所を置く。
一〇八三 永保三年 後三年の役起こる。
○常重生れる。
古代 一〇八七 寛治元年 ○千葉常長、常兼父子後三年の役に源義家に従い戦功あり。(系)
一一一八 元永元年 ○千葉常胤土気町大椎城に生れる。(系)
一一二六 大治元年 千葉介常重大椎城から猪鼻城に移る(系)。
○千葉常晴、常重を養子として相馬郡を譲る。
○曾場鷹神社を建つ(系)。
○妙見尊を池田郷堀内に鎮座する。
○吾妻町光明寺創建と伝う。
一一三〇 大治五年 ○下総権介常重、相馬郡布施郷を伊勢太神宮に寄進する(相馬御厠(みくりや)と称す)(県外)。
○坂尾五郎治大宮町三角山に妙見堂を建つ(後に栄福寺と称す)。
○このころ常重は千葉荘を鳥羽上皇に寄進する。
一一三三 長承二年 ○加曾利町円蔵寺・光伝寺(後に高伝寺と改む)・大宮町泉福寺・小倉町光福寺(後に真福寺更に真浄寺と改む)を建立と伝う。
一一三五 保延元年 ○常胤家督を相続する。相馬御厨の下司職を引つぐ。正六位上。下総介に任ぜられる。
一一三六 同 二年 ○下総国司藤原親通、常重を官物未進の罪により召取る。
一一三七 同 三年 ○院内町に法東院(後に宝幢院と改む)を建立と伝う。
一一四三 康治二年 ○源義朝、常重より相馬御厨の券文を責めとる。
一一四五 久安元年 源義朝、相馬御厨を皇太神官に寄進する。
古代 一一四六 同 二年 ○常胤、父の未進を納め、相馬郡司となる。
○常胤、相馬御厨を皇太神宮に寄進する(県外)。
一一五六 保元元年 保元の乱起こる。常胤、源義朝に従い合戦に加わる。
一一五九 平治元年 平治の乱起こる。上総権介広常参陣。
一一六〇 永暦元年 ○相馬御厨の所有について常胤と源義宗と争う、常胤の主張認められず(系)。
源頼朝、伊豆に配流(愚)。
○秋、源義朝の謀叛(平治の乱)により、常胤は去る保元の乱に義朝に従ったのを理由に、相馬御厨を国衙に没収される。
○この年千葉寺雷火により焼失する。
一一六一 応保元年 ○源義宗(佐竹昌義の子)、相馬御厨の現地支配権を主張し、伊勢内外両宮に寄進する。
○常胤は相馬御厨の支配権を確保するために右大臣藤原公能を通じ、伊勢神官荒木田延明の取計いにより、これを伊勢内外両宮に寄進する。
一一六三 長寛元年 ○伊勢神宮庁の裁決により、常胤敗訴となる。
一一七一 承安元年 ○千葉常胤の三男武石城に移る。
一一八〇 治承四年 ○常重死す。年九八、千葉邑に葬る(系)。
中世 ○以仁王、源頼政平氏と宇治川に戦い敗死。
○常胤の六男胤頼、伊豆に頼朝を訪ねる(吾)。
源頼朝挙兵、目代山木兼隆を急襲して殺す(吾)。
○頼朝、石橋山で大庭景親らと戦って敗れる(吾)。
○頼朝、真名鶴崎から安房国平北郡猟島に逃げ、安西三郎景益の保護をうける(吾)。
○長狭六郎頼朝の宿舎を襲う(吾)。
安達盛長、頼朝の使者として猪鼻城を訪れる。
○和田義盛、広常は回答保留と頼朝に報告(吾)。
○盛長、常胤は一族を挙げて援助すると約束したことを報告(吾)。
常胤、三百余騎を従えて頼朝と国府台で対面(吾)。
○平広常、二万騎を率いて隅田河辺で頼朝に対面(吾)。
○源頼朝千葉の妙見社に参詣する(千)。
○常胤、上総国目代を襲い殺す。
○常胤の孫成胤、千田荘判官代平親政を討ち頼朝に応ずる。
頼朝は約五万の兵を従えて鎌倉に入る(吾)。
富士川の合戦に平軍を破る。
○頼朝、鎌倉の新居に移る。常胤は子息を伴って供奉する(吾)。
一一八一 治承五年 ○頼朝、鶴岡八幡社参後の祝宴を常胤宅でひらき、盛会の極みであった(吾)。
中世 一一八二 寿永元年 ○常胤の妻が政子の着帯の帯親をつとむ(吾)。
一一八三 同 二年 ○平広常、頼朝に殺さる。
○千葉常胤、頼家の七夜儀を美々しくつとめる(吾)。
一一八四 元暦元年 ○頼朝が俊兼の美装を戒めた時、常胤の質実剛健な生活を引合いに出す(吾)。
一一八五 文治元年 守護地頭の設置許可。常胤下総国の守護となる(吾)。
一一八七 同 三年 ○京都の群盗鎮圧のため常胤上洛、京都平穏に帰す(吾)。
一一八九 同 五年 ○常胤は頼朝の命によって、奥州征伐のため一丈二尺の軍旗一旒を新調す(吾)。
中世 ○常胤奥州征伐の東海道大将軍を承る(吾)。
○常胤は論功行賞第一位で、奥州の五郡を賞与さる(吾)。
○常胤は相伝の所領、新恩地などをその子六人に配分す。
○頼朝は安房・上総・下総等の諸国の地頭に命じて荒地を開墾させる(吾)。
一一九〇 建久元年 ○源頼朝、上洛の日、常胤は後陣を承わる(吾)。鎌倉進発の時から後陣(吾)。
一一九二 建久三年 源頼朝、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く(吾)。
千葉常胤、源頼朝自署の袖半下文をもらう(吾)。
一一九三 同 四年 ○畑町子安神社建立(同社棟札)。
○幕張素加天王社(現子守神社)造営(伝承)。
一一九九 正治元年 源頼朝死す。千葉常胤以下一三名の合議制をはじめる(吾)。
一二〇一 建仁元年 ○千葉常胤死す。年八四歳、下総国千葉山に葬る。(吾)法号浄春貞見、年八三歳(系)
中世 一二〇二 建仁二年 ○武石三代王神社勧請(伝承)。
一二〇四 元久元年 源頼家、修善寺にて殺される。
一二一九 承久元年 源実朝、公暁のため殺される(吾)。
藤原頼経、将軍として鎌倉に下る(愚)。
○時に千葉介胤綱警護に当たる(吾)。
一二二八 安貞二年 ○千葉介胤綱死す。年二一歳(系)。
一二三〇 寛喜二年 ○千葉介時胤、幕府の推挙によって竜口の警固のため上洛する(吾)。
一二三八 暦仁元年 ○時胤、将軍の上洛に供奉する(系)。
一二四一 仁治二年 ○時胤死す。年二四歳。千葉で火葬する(系)。
一二五六 建長八年 ○花島観音の本尊十一面観音を仏師賢光彫刻す。
一二七四 文永一一年 文永の役(元)。
一二七六 安永二年 ○来迎寺開基(伝承)。
一二八一 弘安四年 弘安の役(元)。
一二八九 正応二年 ○金光院創建同年銘の板碑あり(伝承)。
一二九四 永仁二年 ○武石町真蔵院に武蔵型の板碑あり。
一三二四 正中元年 ○正中の変に当たり、千葉介貞胤は北条高時の配下となり、京都征討軍として勇戦(太)。
一三二七 嘉暦二年 ○東禅寺開基(同寺梵鐘銘)。
一三三二 元弘二年 ○北条高時、後醍醐天皇を隠岐に遷すとき、千葉貞胤警固に当たる(太)。
○花山院藤原師賢を貞胤預り、香取郡大須賀郷に住わせる(太)。
中世 一三三三 元弘三年 新田義貞鎌倉攻略(梅)。
○千葉貞胤は義貞勢として鎌倉に進撃する(梅)。
一三三六 建武三年 新田義貞、足利尊氏と戦い越前に走る。
延元元年 ○義貞方の千葉貞胤、足利の部下となる(太)。
一三三八 同 三年 足利尊氏、弟直義に関東十カ国を管領させる。
○足利尊氏、北朝より征夷大将軍に任ぜられる。
一三四二 康永三年 ○千葉介氏胤六歳で将軍の天竜寺供養に後陣として供奉(園)。
○康永三年十一月一日の銘ある梵鐘大日寺跡より発掘(昭和三八、三、一四)。
一三四九 貞和五年 足利基氏、関東管領となる。
一三五一 観応二年 ○足利尊氏の部下として勇戦した千葉貞胤は京都に死す。年六一歳。
○千葉氏胤、直義方に属し、北国に走る高師直軍を近江に遮断する(園)。
○足利尊氏が弟直義を鎌倉に討伐したとき、氏胤一五歳で参加(園)。
一三五二 文和元年 新田義宗、義興ら鎌倉に攻め入る。
○氏胤は尊氏のもとで勇戦した(系)。
一三五六 延文六年 ○本城寺に同年銘の鰐口あり。
一三六五 貞治四年 ○千葉介氏胤、京都からの帰途、美濃蜂屋庄で死去。年二九歳(系)。
一三八〇 康暦二年 ○千葉満胤、小山義政の祇園城を攻撃する。
一三九二 明徳三年 南北朝合一(綾)。
一四一六 応永二三年 ○上杉禅秀の乱。千葉兼胤、禅秀にくみする。
一四二六 同三三年 ○千葉満胤死す。
一四三八 永享一〇年 結城氏朝、足利持氏の遺子を奉じ挙兵。
一四五五 康正元年 ○原胤房、猪鼻城を急襲。千葉胤直父子は多古に逃れる。この乱により千葉氏二派に分裂する。
関東公方足利成氏古河に走り古河公方となる。
○原胤房、馬加康胤、志摩・多古両城を攻め、千葉胤直・胤宣自殺する(鎌)。
○東常縁、東下。馬加城に康胤を攻める。
一四五六 康正二年 ○足利成氏、市川城の千葉自胤らを攻撃。自胤敗走。
○馬加康胤、上総八幡において敗死する(鎌)。
一四六七 応仁元年 応仁の乱起こる。
一四六九 文明元年 ○東常縁、美濃に帰る。
○浜野町本行寺創建(寺伝)。
一四七一 同 三年 ○長尾景信、古河を攻める。足利成氏、千葉に走り、千葉孝胤のもとに身を寄せる。
一四七二 同 四年 ○里見・千葉・武田などの諸将、古河を攻めてこれを復し、成氏は古河に還る。
一四七八 同一〇年 ○梁田政信のすすめで、成氏と両上杉和睦。千葉孝胤、これを喜ばず、両上杉に対抗する。
○太田道灌、国府台に陣し、千葉孝胤を境根原に破る(道)。
一四七九 同一一年 ○太田資忠・千葉自胤、臼井城を攻撃する。
一四八一 同一三年 ○寒川神社の獅子頭の銘に同社の再建と獅子頭奉献のことあり。
一四八八 長享二年 ○酒井定隆、土気城に入る(土)。
○酒井定隆、領内に布達し、顕本法華宗に改宗を断行したと伝える。
一四九〇 建徳二年 ○宗胤寺創建(寺伝)。
一四九二 明応元年 ○千葉輔胤死す。
一四九五 同 四年 伊勢長氏(北条早雲)、小田原城に入る。
一四九七 同 六年 古河公方足利成氏死す。子政氏嗣ぐ。
一五〇五 永正二年 ○千葉孝胤死す。
一五〇六 同 三年 ○七里浪華開祖日泰、本行寺にて入寂する。
一五〇九 同 六年 ○連歌師宗長、小弓城主原胤隆の館に来る(東)。
一五一七 同一四年 ○武田信保、小弓城を攻めて原を追い、足利義明を居住させ、小弓御所と称す。
一五二二 大永二年 ○酒井定隆、東金城において死す。
一五二六 同 六年 ○里見実堯、鎌倉に渡り北条氏綱と戦う。酒井定治従軍し功をたてる。
一五二九 享録二年 ○生実町に同年銘の庚申待供養碑あり。
一五三二 天文元年 ○千葉勝胤死す。
一五三八 同 七年 国府台の戦。足利義明戦死、里見義堯敗走する(相)。
一五四〇 同 九年 ○土気城主酒井定治死す。
一五四四 同一三年 ○越知町千眼神社に同年号を刻したる鰐口あり。
一五四五 同一四年 ○富岡町長徳寺に追刻の銘ある梵鐘あり。
一五四六 同一五年 ○千葉昌胤死す。
一五四八 同一七年 ○千葉利胤死す(又は、弘治三年八月九日)。
中世 一五五〇 天文一九年 ○千葉妙見宮の遷宮を挙行する。
○千葉寺町畑野家の竹山より、同年の銘文ある梅竹透釣燈籠出土(明治四三年)。
一五五一 同二〇年 ○大巌寺開基(寺伝)。
一五五五 弘治元年 ○土気城主酒井玄治死す。
○里見の将正木時茂千葉に乱入する。
一五五七 同 三年 ○千葉親胤家臣に殺される。
一五六四 永禄七年 ○第二次国府台の戦。里見義弘・太田資正など、北条氏政と戦い敗退する。
一五六五 同 八年 ○北条氏政、土気城を攻める。胤治、援を越後の上杉謙信に請う(越)。
一五六六 同 九年 ○謙信、臼井城を囲む、里見義弘出兵し助ける。
一五六八 同一一年 ○千葉胤富、海上郷の地を千葉寺に寄進する。
一五七一 元亀二年 ○正木時茂、小弓城を取り千葉に入る。
○高品町等覚寺の本尊薬師如来はこの年志州の常鏡によりて作らる。
一五七四 天正二年 ○大宮町・栄福寺に平胤栄の寄進銘の燈籠あり。
一五七七 同 五年 ○土気城主酒井胤治死す。
一五七九 同 七年 ○公津城主千葉胤富死す。
一五八二 同一〇年 織田信長自殺。
○千葉寺に空山の五輪塔あり。
一五八五 同一三年 ○千葉邦胤、家臣の桑田万五郎に刺される。
一五八九 同一七年 ○地頭大野勘解由左衛門稲毛浅間神社に社領三〇石を寄進す。
中世 一五九〇 天正一八年 ○秀吉軍により小田原城落城、北条氏滅亡し、北条の属将千葉氏一族も滅ぶ(系)。
○徳川家康、大巌寺に禁制を下す。
家康江戸入国、両総の諸城悉く降伏する。
○房総各地に徳川譜代の家臣が封ぜられる。
○久能宗能、佐倉において、一万三千石に封ぜられる。
一五九八 慶長三年 豊臣秀吉歿す。
一六〇〇 同 五年 関ケ原の戦い。
一六〇一 同 六年 房総大地震、沿海に津波、死者多く出る。
一六〇二 同 七年 ○佐倉城主四万石武田信吉、常陸水戸に移封。
近世 一六〇三 同 八年 徳川家康幕府をひらく。
一六〇七 同一二年 ○小笠原吉次、佐倉二万八千石を賜る。
一六〇八 同一三年 ○小笠原吉次、佐倉より常陸の笠間に転封。
一六一〇 同一五年 ○この春、土井利勝、小見川より佐倉に転封され、三万二千四百石を賜る。
一六一三 同一八年 ○寒川村名主布施丹後父子官許を得て、丹後堰を開く。
一六一四 同一九年 ○東金街道(御成街道)とお茶屋御殿の建設。
○家康、東金に狩をする。一月八日千葉に泊る。
一六一五 元和元年 ○大阪夏の陣に際し佐倉城主土井利勝、東軍の参謀となる。
一六一六 同 二年 ○徳川家康没す。
一六二二 同 八年 ○草刈堰竣工す(一六一五年の説もある)。
一六二五 寛永二年 ○布施丹後による用水完成。
一六二七 同 四年 ○森川重俊一万石を領し、千葉郡生実へ入る。
○将軍秀忠、東金に猟をする。
一六三三 同一〇年 ○土井利勝、佐倉より古河に転封。
○石川忠総、豊後日田より佐倉七万石に転封。
一六三四 同一一年 ○石川忠総、佐倉より近江膳所に移封。
○日浄上人誉田町一丁目(旧野田村)に本覚寺を創建。
一六三五 同一二年 ○松平家信、摂津より佐倉四万石に移封。
一六三五 同一二年 ○本覚寺代官三浦監物により焼却せらる。
○日浄外僧俗六人十文字原にて斬首の刑に処せらる。
一六四二 同一九年 ○堀田正盛、佐倉一二万石に封ぜられる。
一六四四 正保元年 ○登渡神社の前身、真光院定胤寺創建(伝承)。
一六五一 慶安四年 堀田正盛、家光に殉死する。
一六六〇 万治三年 ○佐倉藩主堀田正信、直諫書を奉り無断帰藩する。これにより堀田正信、除封される。
一六六一 寛文元年 ○松平乗久、上野国館林より佐倉六万石余に移封。
一六六五 同 五年 ○地頭浅倉仁左衛門と相給石川土佐守の入会地松林五反歩を稲毛浅間神社に寄進す。
一六七八 延宝六年 ○佐倉藩主松平乗久、佐倉より肥前唐津に移封される。同時に大久保忠朝、肥前唐津より佐倉八万三千石に移封。
一七〇一 元禄一四年 ○戸田忠真、佐倉より越後高田へ移封。この日稲葉正往、高田より佐倉へ移封。
一七〇三 元禄一六年 ○長沼町の駒形観音堂は、然誉沢春和尚により開基され、露座の大仏建立せらる。
一七一六 享保元年 ○南生実町八剱神社社殿再建遷宮式挙行。玉前神社の神楽師来り同社に伝わる神楽を教える。
一七一六~三五 ○幕張町の磯出祭この年より七年ごとに施行と定まる。
一七二三 同 八年 ○佐倉藩主稲葉正知、山城の淀城へ移る。松平乗邑、山城の淀より佐倉へ移る。
一七二四 同 九年 ○染谷源左衛門ら印旛沼掘割工事を行うが失敗。
一七三五 同二〇年 青木昆陽、幕張で甘藷栽培を試みる。
一七四六 延享三年 ○松平乗佑、佐倉より山形へ移封。この日堀田正亮、山形より佐倉へ入る。
一七八二 天明二年 ○印旛沼掘割工事を行う(天明の工事)。
一七八三 同 三年 ○豪雨により利根川大洪水作物の被害甚大であった。
浅間山噴火、飢饉広がる。
○印西、成田方面の農民強訴。
一七八六 同 六年 関東一帯大雨洪水の被害を受ける。夏より冬にかけて飢饉広がる。
一七八七 同 七年 ○千葉町に打ちこわし起り、一八軒を打ちこわす。
一七九一 寛政三年 ○大風雨。船橋、行徳等付近一帯に大津波襲う。
一七九二 同 四年 佐倉藩主堀田正順、京都所司代となる。
一七九三 同 五年 松平定信、房総海岸の巡検に出発する。
一七九六 同 八年 ○稲村三伯江戸にて蘭日対訳辞書『波留麻和解』を完成す。
近世 一八〇二 享和二年 ○平山町東光院は寺社奉行の命により東照院を東光院と改号させらる。
○稲村三伯江戸を追われ、登戸村金七の世話により、稲毛村で医師を開業する。
一八〇三 同 三年 ○東葛飾郡寺内村彦右衛門ら六方野の開発を請負う。
一八一三 文化一〇年 ○柔術家戸塚彦介英俊江戸西久保に生れる。
一八二一 文政四年 ○佐倉藩、年貢米を寒川御蔵へ納入さす。
一八二五 同 八年 ○亥鼻山に佐倉藩異国船警固のため、居小屋を設置。
一八二七 同一〇年 ○千葉町利兵衛、炭会所御用達に任せられる。
一八三三 天保四年 佐藤信淵『内洋経緯記』を著す。
一八三六 同 七年 ○戸田大学知行所に下総騒動起る。
○堀田正睦、佐倉に学舎成徳書院をつくる。
○千葉寺村五田保の花沢紋十、野州の中里某に澱粉製造の技術を学んで、製造を開始。
一八三七 同 八年 ○澱粉製造に山葵卸(わさびおろし)の使用が伝わる。
一八四一 同一二年 ○豆相・安房・上総の警備地検視のため代官江川英竜(太郎左衛門)出発する。
一八四三 同一四年 ○幕府、五藩に命じて印旛沼掘割工事を行う。
○生実藩領野田村など、助郷問題で藩主に直訴。
○佐倉藩領加曾利村など、助郷問題で藩主に直訴。
一八四五 弘化二年 ○田村吉右衛門、穴川野開発を賞せられる。
一八四六 同 三年 ○千葉町木炭商一五名、藩営佐倉炭営業権をゆずりうけ炭槇問屋株仲間を結成。
近世 一八四七 弘化四年 ○昆陽神社建立。
一八五〇 嘉永三年 ○信州諏訪の宮大工(彫刻師)立川和四郎来葉し、妙見寺の建設のため種々の彫刻をする。
一八五〇 同 三年 ○登渡神社葛飾郡八木村大工紋次郎を棟梁として再建完成す。
一八五五 安政二年 ○佐倉藩主堀田正睦、徳川幕府の老中首座となる。
一八五五 同 二年 ○登渡神社の祭礼各年ごとに施行することに佐倉藩主より許可される。
一八五八 同 五年 ○江戸近在にコレラ流行。
一八六二 文久二年 ○宮大工喜兵衛野呂村の妙興寺を造営。
一八六四 元治元年 ○佐倉藩主堀田正睦死す。
○幕府は、佐倉・古河・関宿・結城・生実・高岡小見川の諸藩に命じ水戸浪士に備えさせる。
一八六六 慶応二年 ○千葉町で米価高騰による強訴。
一八六七 同 三年 ○千葉郡犢橋村の農民、村役人に反対し打ちこわしを起こす。
近代 一八六八 同 四年 大政奉還。
戊辰戦争起こる。
○佐倉藩主堀田正倫、加納久宜、久世広文、酒井忠美ら、徳川慶喜の罪の軽減を願う。
○房総騒擾のため大総督海軍先鋒大原俊美に令し、軍艦を上総、安房に出動させる。
○柳原前光、国府台に諸藩隊長と会し、旧幕府兵掃討を命じ、佐倉を駐屯地とする。
○下総知県事に佐々布直武就任。
○藤代貞輔、検見川に生る。後京都帝国大学文科学長となる。
一八六九 明治二年 ○葛飾県をおく。
版籍奉還。
○森川俊方、生実藩の知藩事となる。
一八七〇 同 三年 ○曾我野藩おかれる。
○佐倉藩は領内荒地を藩士に払下げる。
○貝塚の千脇八郎兵衛、貝灰による石灰製造を始める(第一次県庁舎の壁材になる)。
一八七一 同 四年 廃藩置県。
○佐倉県、曾我野県、生実県おかれる。
○印旛県をおく。
○田畑勝手作りを許可。
一八七二 同 五年 ○千葉郡は、印旛県の第九大区となる。
○郵便役所、千葉町に設置される。
○千葉――両国間に馬車便が運行される。
○土地売買の禁を解く。
○鳥喰野など入会地、開墾のため私有化される。
学制を制定。
一八七三 明治六年 ○千葉県誕生。県庁が千葉町におかれた。
○千葉裁判所設置(大日寺本堂)。
○千葉警察署(大区出張所)設置(大日寺)。
○千葉――両国間に人力車運行される。
○地租改正始まる。
○津田出、西洋農具による開墾を申請。
○鈴木政吉、粟漬の製造を開始。
○池田小学校(現本町小学校)開校。
○教員養成機関鴻ノ台小学校を千葉町に移す(千葉学校)。
一八七四 同 七年 ○仮県庁舎千葉神社の一部焼失。
○千葉新聞輯録発刊される。
○共立病院、千葉町にできる。
○千葉県庁舎、現市場町一番地に新築・移転。
○千葉県議事堂完成。
○積成舎(印刷工場)長洲に創業。
○千葉学校、千葉師範学校と改称。
一八七五 同 八年 ○地租改正のため、下総の丈量始まる。
近代 一八七五 明治八年 ○津田仙、寒川で禾花媒助法を公開。
○千葉町で初めてキリスト教(新教)布教。
一八七六 同 九年 ○共立病院、旧吾妻町三丁目に新築移転し、公立千葉病院(県営)となる。医師養成開始。
一八七七 同一〇年 西南戦役起こる。
○東山科など民費による開墾盛んとなる。
○千葉女子師範学校、千葉町に開設。
一八七八 同一一年 大小区制廃止
○千葉市原郡役所、県庁敷地に設置。
○千葉戸長役場設置(寒川片町)。
○県立勧業試験場、亥鼻に開設。茶、桑を試植。
○静岡の茶種売商人、登戸に開店する。大草の白井卓蔵、紅茶の製造を伝習する。
○千葉地先海面に、かき養殖を始める。
○千葉中学校創設。
○千葉招魂社(後、県護国神社・千葉神社境内)創建。
近代 一八七七 明治一二年 ○電信分室、千葉町に設置。
一八八〇 同一三年 ○千葉町の人口、五千八百人。
一八八一 同一四年 ○道場、院内一帯三二八戸焼失。
○千葉郡役所新築。
○『千葉公報』発刊。
○『総房共立新聞』発刊。
○内湾三八品の漁職、神奈川参会で再確認。 
一八八二 同一五年 ○明治天皇、誉田村へ近衛師団の演習視察(千葉女子師範学校へ宿泊)。
○『東海新聞』発刊。
○『千葉日々新聞』発刊。
一八八三 同一六年 ○寒川登戸両港開設調査をデ・レイキに依頼。
○澱粉仲買人大塚十右衛門、馬れい薯澱粉の製造開始。
一八八四 同一七年 ○公選戸長を官選に変更。
一八八五 同一八年 ○神奈川参会を改組し、東京湾漁業組合を設立。
○貝類の養殖を漁業組合が始める。
一八八六 明治一九年 ○本町、吾妻町の五十余戸焼失。
○陸軍野戦砲兵学校、下志津原に移転。
○千葉郵便局創設。
○登戸地先の海岸道路完成(囚人労働による)。
○澱粉製造に、人力摺砕機を導入。
一八八七 同二〇年 ○千葉警察署、本町二丁目に新築(千葉町最初のレンガ建築)
○総州鉄道、本所・千葉・八街・銚子間を出願。
○武総鉄道、本所・千葉・佐倉・佐原間を出願。
○寒川漁業組合設立。
一八八八 同二一年 ○武総・総州両鉄道の創設願書却下される。
○千葉町鈴木利兵衛、有志に桑苗を貸与。
一八八九 同二二年 市制町村制施行。
○千葉町、寒川・登戸・黒砂・千葉寺を合併。
○千葉町会議員の初選挙行われる。
○千葉町初代町長に田村吉右衛門を選任。
○総武鉄道に、小岩――佐倉間の建設免許状下付。
一八九〇 同二三年 ○曾我野村、町となる。
一八九〇 明治二三年 ○寒川港、登戸港の港勢が大発展する。
○千葉郡内の茶畑衰退し、このころから桑園に替る。
○富士見橋畔に製糸場設立される。
一八九一 同二四年 ○町長を有給とする。
○君塚辰之助著『千葉繁昌記』出版。
○私立の千葉幼稚園開設される(千葉町で最初)。
一八九二 同二五年 ○千葉町役場庁舎が市場二番地に完成、移転。
○千葉町中心街四一七戸焼失。
○澱粉製造の大石合名会社、千葉町に設立。
一八九三 同二六年 ○避病舎を都賀村に新築。
一八九四 同二七年 日清戦争起こる。
○総武鉄道市川――佐倉間開通。千葉駅開業。
○総武鉄道、本所まで開通。幕張駅開業。
○現在の千葉市銀座通りの街路できる。
○経木・真田製造始まる。
一八九五 同二八年 ○日清戦争の受勲者一四一名、戦死者七名。
○検見川漁業組合設立。
○藤井三郎著『千葉繁昌記』出版。
○日本キリスト教会の千葉教会、教会堂できる。
近代 一八九六 明治二九年 ○幕張村、町となる。
○房総鉄道、蘇我――大網間開通。蘇我、野田(誉田)駅開業。
○房総鉄道千葉――蘇我間開通。寒川駅(本千葉駅)開業。
○土気駅開業。
○千葉郡農会設立。
一八九七 同三〇年 ○千葉郡役所、千葉町に設置。
○本千葉駅前道路(不動尊通り)開通。
○総武鉄道、銚子まで開通。
○郡農会、蚕業三要項を定め奨励。千葉第一蚕業組合創立(若林半左衛門)。
○袖ケ浦漁業組合設立。
○千葉郡澱粉改良組合を結成(新田庄八)。
○千葉量器及び大野深沢合名(衡器)創業。
一八九八 同三一年 ○千葉消防組第一部~第七部編成される。
一八九九 同三二年 ○千葉町に、計画的な街路建設が始まる。
○大塚宗之助、稞麦裏作に畜耕導入。
一九〇〇 同三三年 ○飯豊利一、ヨークシャ種豚導入。
近代 一九〇〇 明治三三年 ○小川長右衛門、愛国種(稲)導入。
○甘藷、「立四十日種」を都賀村で発見固定。
○県立千葉高等女学校設置認可。
一九〇一 同三四年 ○町立千葉商工補習学校開校。
○今井製油(胡麻油製造)蘇我町に創業。
一九〇二 同三五年 ○石橋善三郎、ホルスタイン導入。
○長谷川経木・真田工場創業。
一九〇四 同三七年 日露戦争起こる。
○助役を二人制にする。
○出征軍人のため恤兵会が組織される。
○戦争のため馬・荷馬車の徴発が始まる。
○千葉活版(印刷工場)、本町に創業。
○今井製紙、蘇我町に創業。
一九〇五 同三八年 ○旅順開城、奉天大戦、日本海海戦の戦勝会開く。日露戦争に戦死者九四名、戦傷者二、二四九名。
一九〇五 明治三八年 ○千葉地先海面で、のり養殖始まる。
○犢橋村で、農会貯金部を設立。
一九〇六 同三九年 ○千葉電燈株式会社設立、千葉町に電燈がつく。
○系統農会を通し、稲作三要項を指導奨励。
一九〇七 同四〇年 ○千葉――両国橋間複線化完成。
○総武・房総両鉄道、国有鉄道に編入される。
○寒川港・登戸港が衰え、中継商業が縮小した。
一九〇八 同四一年 ○交通兵旅団司令部、千葉町に設置。鉄道第一連隊、都賀村に設置。
○寒川・五田保で三八五戸焼失、全町内に防火組合をおく。
○遍田で約五町歩の耕地整理実施。
○澱粉工場で、石油発動機使用開始。
○町内各小学校を第一~第四尋常小学校に改称。
一九〇九 同四二年 ○千葉町に五人組発足、衛生組合できる。
○鉄道連隊材料廠、陸軍兵器補給廠設置。
○亥鼻山公園建設着手。
○島野製糸所、院内で創業。
一九一〇 同四三年 ○寒川港改修工事、出洲埋立実施。
○千葉町に電話が開設される。加入者二百名。
一九一〇 明治四三年 ○寒川の訓盲院授業開始。
一九一一 同四四年 ○千葉県庁第二次庁舎(ルネッサンス式)落成。
○皇太子殿下(大正天皇)、千葉町の軍施設を視察。
○暴風雨により甚大な被害をうける。
○大草約四町歩の暗渠排水を施工。めい虫防除に卵を奨励買上げする。
○電動機を澱粉工場で使用開始。
一九一二 同四五年 ○浜野駅開業。
明治天皇崩御。
○蘇我・姉ケ崎間の鉄道開通。
○千葉ガス株式会社設立。燃料用ガス供給開始。
大正元年 ○陸軍歩兵学校、作草部に設置。
一九一三 同 二年 ○町役場の新庁舎完成(現企業庁の一隅)。
一九一四 同 三年 ○第一次世界大戦始まる。
一九一五 同 四年 ○千葉――東金間乗合バス営業。
○メリヤス手袋・靴下製造工場、千葉町に設立。
近代 一九一五 大正四年 ○伊藤飛行機研究所、稲毛海岸に設立。
一九一六 同 五年 ○恵美一号、稲毛より首都訪問飛行に成功。
一九一七 同 六年 ○畜産試験場完成(現青葉町)。
○大暴風雨・高潮のため沿岸の澱粉工場被害甚大。
○ビール会社と麦の契約栽培共販きまる。
一九一八 同 七年 ○第一次大戦に戦死者二名、戦傷者一三七名。
○星久喜新道新設。
○米騒動起こる。誉田村で半数の農家が飯米に困窮。
○日本油脂(株)(落花生油製造)寒川に創業。
○日本化学製粉(株)(澱粉製造)幕張に進出。
一九一九 同 八年 ○北条線、館山まで開通。
○湯浅幹、甘藷「千葉赤」種改良固定。
○千葉貝捲漁業組合の結成で貝類養殖が盛ん。
一九二〇 同 九年 ○物価暴騰(米価五年前の三倍)。
近代 一九二〇 大正九年 ○大日本製氷(株)千葉工場、栄町に進出。
○千葉師範附属小学校で自由教育を始める。
一九二一 同一〇年 ○千葉市制施行。初代市長神田清治。
○初の市会議員選挙を行う。
○京成電鉄、船橋――千葉間開通。七駅開業。
○乗合自動車(バス)運行。
○県農会主催名物共進会に検見川の甘藷特選となる。
○市内小学校「一市一校制」となる。
一九二二 同一一年 ○最初の市営住宅三五戸、新宿・長洲に建設。
○千葉市街計画調査委員会を設置。
○千葉港、指定港湾となる。
○県立農業試験場、松戸から都村に移転。
○野菜栽培盛んとなり、桑園減少。そらまめ栽培奨励。金肥消費量。県下最大となる。
○両総綿業(株)、寒川新田に創業。
○千葉電燈(株)、帝国電燈(株)に買収される。
一九二二 大正一一年 ○市内の商店数二、八八七店となる。
○千葉女子技芸学校(後、千葉経済学園)創設。
一九二三 同一二年 ○郡制廃止。
○下志津飛行学校開校(現若松町)。
○関東大震災で市街に被害多し。
○米価下落。農会で安売り防止。
○松本米穀製粉(株)、新町に創業。
○参松合資会社千葉工場、新宿に完成。
○市立千葉商業学校創立(現県立千葉商業高校)。
一九二四 同一三年 ○商店街の不況が強まる。
一九二五 同一四年 ○千葉市の乗用車二七台、トラック一一台。
○千葉市街自動車(株)の設立。乗合馬車から乗合バスに変わる。
○千葉人力車組合が自動車経営。
○千葉淑徳高等女学校(創立現千葉明徳学園)。
○関東中学校創立(現千葉敬愛学園)。
一九二六 同一五年 ○千葉開府八百年祭を開催。
一九二六 大正一五年 ○千葉郡役所廃止。
○東京無線電信局検見川送信所発足する。
○帝国電燈(株)、東京電燈(株)に買収される。
○郡農会一トン車で、野菜を神田市場に移送開始。
大正天皇崩御。
一九二七 昭和二年 ○気球隊、作草部に設置。
○川野辺開墾で小作争議起こる。都賀村で日農支持の騒動起こる。
○長作で組合による掘抜井戸灌漑が実現する。
○更科村で農繁期託児所開設される。
一九二八 同 三年 ○小学校の「一市一校制」を解消。
一九二九 同 四年 ○普通選挙法に基づく、第一回市会議員選挙行われる。
○都市計画施行案を市会で可決。
○房総環状線開通。
○千葉市土木建築請負業組合発足。
○蘇我町に県農会立家政女学校設置される。
○養兎(軍需品向)の普及で多部田組合表彰される。
○県農試改良すいか「都一号」の振興が図られる。
近代 一九二九 昭和四年 ○誉田村高田婦人会の活動が推奨さる。
一九三〇 同 五年 ○内務省から「都市計画法」「市街地建築物法」施行地に指定される。
○京成自動車株式会社の創立。
○日東製粉(株)、松本製粉を買収し千葉工場とする。
一九三一 同 六年 満州事変勃発。鉄道連隊、歩兵学校などに出動命令下る。
一九三二 同 七年 ○都市計画地域とその事業を決定。最初の舗装道路できる。
○両国――御茶の水間開通し、千葉と都心が接続。
○農村更生計画を推進。
○千葉市の会社数は七三となる。
一九三三 同 八年 ○荒木山公園(現千葉公園)建設される。
一九三四 同 九年 ○県営上水道の千葉水源系統が完成。
○千葉中央青果市場設立される。
一九三五 同一〇年 ○千葉に国電の乗入れ実現。
近代 一九三五 昭和一〇年 ○市街地の土地区画整理事業を開始。
一九三六 同一一年 ○県営上水道完成、千葉市に給水開始。
○市街地の街路舗装を大規模に開始。
○経済恐慌に鑑み、自立更生計画の樹立、実践。
○市立千葉工業学校設立(現県立千葉工業高校)。
一九三七 同一二年 ○検見川町、蘇我町、都賀村、都村、千葉市に合併。小学校一〇校となる。
○東洋一の千葉医科大学附属病院完成。
日華事変起こる。
○穴川に陸軍戦車学校設置される。
○商工局、稲毛にアルコール工場を建設。
○千葉郡内の甘藷作付最盛期となる。
一九三八 同一三年 ○小中台に陸軍防空学校設置される。
○市営下水道第一期工事開始。
○県立育種農場、誉田村に開設。
一九三九 昭和一四年 ○葛城病院完成。
○警防団結団。
○千葉商工連合会の設立。
○工場増加が顕著となる。
○草刈選手権県大会に犢橋村太田春治四位入選。
一九四〇 同一五年 ○内務省土木会議で千葉臨海工業地の計画策定。
○蘇我今井地先海面九〇万坪の埋立決定。
四月ごろから生活物資漸次切符制となる。
大政翼賛会千葉市支部発足。
新聞統合により、『千葉新報』発足。
○桃山風市庁舎、京成電鉄(株)より買収移築落成。
○千葉商工会議所の創立。統制経済の商業調査で店舗数二、三六七店。
○穴川に内外製鋼所(株)創業。
太平洋戦争に突入。
一九四一 同一六年 節米のため代用食、混食による報国運動始まる。
○蘇我・曾我野漁業組合は埋立地造成のため漁業補償をうける。
○市立千葉高等女学校設置(現県立千葉東高校)。
一九四一 同一六年 ○市内各小学校、国民学校と改称。
一九四二 同一七年 ○翼賛壮年団千葉市支部発足。
衣料品切符制となる。
○西千葉駅開業。
小売業整備要綱により、店舗四五七店に整理。
すいか、桐、桑など特定作物の作付禁止。
○東大第二工学部黒砂台(現弥生町)にできる。
一九四三 同一八年 ○護国神社、千葉神社より亥鼻山へ移転。
○日立航空機製作所(株)、蘇我海岸埋立地へ進出。
一九四四 同一九年 ○千城村を合併。
○陸軍防空学校幹部候補生隊設置。
市内主要建築物に迷彩を施し、疎開も始まる。
○稲荷・今井の澱粉工場強制撤去。
一九四五 同二〇年 ○千葉市は防空都市建設工事を開始。
○二度にわたり千葉市街大空襲をうける。市街地全焼。
終戦。
軍政部を県庁に設置。千葉市に軍政が行われる。
現代 一九四五 昭和二〇年 ○『千葉新聞』創刊。
○戦災地復興計画により、千葉復興事務所、栄町に開設。
○下志津原など国有地の入植、払下げ始まる。
一九四六 同二一年 衆議院議員選挙。
○天皇陛下、戦災状況視察のため来市。
○復興都市計画を五カ年計画で開始。
○千葉市転入人口の流入を拒絶する。
○皇太子殿下、貝塚などを視察。
○市街地の区画整理施行地域告示。
○農地委員選出。
農地改革施行される。
○稲毛に丸山製作所(株)、新町に千葉度量衡工業所(株)、作草部に千葉化学機械製作所できる。
○私立聖書農学園開設。
○市内各小学校でララ物資などによる学校給食開始。
一九四七 同二二年 ○知事、市町村長選挙。
○加納市長当選。
参議院議員選挙。
衆議院議員選挙。
現代 一九四七 昭和二二年 ○地方議会議員選挙。
○第一回農地委員会。
六三制実施。国民学校を小学校と改称。
○市内七中学区制により、新制中学発足。
○千葉市の共同住宅に戦災者、引揚者を収容す。
○今井地先埋立地に千葉製粉(株)創業。
○武本為訓、「利根川治水根本対策建白書」提出。
一九四八 同二三年 ○千葉市の自治警察署発足。
アイオン台風襲来被害をうける。
○千葉市消防署発足。
○千葉市教育委員会設置。
○新宿に雪江畜産工業(株)創業。
○農業改良普及員の活躍で技術の進歩が画一化する。
一九四九 同二四年 ○千葉競輪認可。
○千葉軍政部廃止。
○千葉民事部閉鎖。
○市内数カ所に市営浴場が設置される。
○復興都市計画を打切りとする。
○漁業組合は漁業協同組合に再編成。
一九四九 昭和二四年 ○稲毛に専売公社再乾燥工場を建設。
○農薬D・D・T、パラチオン剤出現。
○千葉市のインフレーションがようやくおさまる。
○新制大学、千葉大学開校式を挙行。
一九五〇 同二五年 ○宮内三朗市長就任。
○天皇、皇后両陛下、全日本学生陸上選手権大会のため千葉市へ。
○新五カ年都市計画を実施。
○千葉港、地方港湾となる。
○川崎製鉄(株)千葉製鉄所の誘致決定。
○千葉市の人口一三万人、戦前の最高人口数を超す。
○千葉市の復員軍人は七、三七一名。
○ビニールハウス、折衷苗代普及。
○隠退蔵物の摘発で、米貨百万ドル銀塊六二万トンが発掘される。
一九五一 同二六年 ○大雪(明治三十年以来)で交通途絶起こる。
○新検見川駅開業。
○川崎製鉄(株)千葉製鉄所の起工式を行う。
一九五一 昭和二六年 ○県総合開発計画に臨海工業地の計画が成る。
○千葉市の商店数二、四〇三店。
一九五二 同二七年 ○鎌取駅開業。
○千葉東変電所へ一五万ボルトの送電を開始。
○千葉市企業誘致条例制定。
○東京電力(株)、千葉火力発電所の建設を決定。
一九五三 同二八年 ○千葉港に一万トン級船舶入港。
○川崎製鉄千葉製鉄所第一号熔鉱炉に火入れ。
○幕張に堀切バネ製作所(株)の工場建設。稲毛に川島パン(株)製パンエ場建設。
一九五四 同二九年 ○幕張町、犢橋村を合併。
○千葉港、出入国管理令による港に指定。
○東京電力火力発電所の起工式を挙行。
○千葉港、国際開港場に指定。港湾の形態整う。
○房総東線・西線の気動車化完成。
○蘇我漁協と漁業補償が妥結。
一九五五 同三〇年 ○生浜町・誉田村・椎名村、千葉市と合併。
○東京電力用地として、蘇我地先に九万二四六〇坪の埋立地造成。
現代 一九五六 同三一年 ○市制三十五周年祝賀式典行われる。
○京葉臨海広域都市計画が始まる。
○『千葉新聞』解散。
○日本住宅公団の稲毛団地が完成。
○東京電力千葉火力発電所一号機発電を開始。
○川崎製鉄千葉製鉄所の法人税固定資産税の減免問題が発生。
○新農村建設総合対策により園芸農業を促進。
○検見川にコンクリート畦畔実現する。
一九五七 同三二年 ○『千葉日報』創刊。
○五年ぶりに電力危機で停電続く。
○千葉港に水上警部派出所完成。
○千葉港、重要港湾に指定。
○東京電力千葉火力発電所第一期完工式を挙行。
○塩田で、東邦電化工業(株)電気製銑を開始。幕張に県策会社千葉畜産工業(株)設立。
○小倉に観光ぶどう園できる。
一九五八 同三三年 ○台風二一号、二二号襲来。
○平山滋春助役、四期就任。
一九五八 昭和三三年 ○本千葉駅、長洲に移転。
○京成千葉駅ビル完成、駅移転。
○総武本線、成田線の気動車化。準急列車運転。
○川崎製鉄千葉製鉄所銑鋼一貫生産体制確立。
○千葉市の中心商店街の西方移動が始まる。
一九五九 同三四年 ○四街道町大日栄地区を千葉市に合併。
○国民健康保険課、区画整理課を新設。市農業委員会、選挙管理委員会、監査委員の事務局を新設。
○放射線医学総合研究所できる。
○市内の電話、即時方式になる。
○全市に国民健康保険を実施。
○川鉄化学(株)、千葉製鉄所内に創業。工場の内陸部進出が始まり、園生に大石産業(株)、原に帝国石油(株)千葉鉱業所開設。長沼に鬼怒川ゴム工業(株)進出。
○地元資本の扇屋・田畑・奈良屋百貨店は、売場面積の拡大競争を開始。
○千葉市立高等学校開校。
一九六〇 同三五年 ○国鉄千葉駅の起工式行われる。
一九六〇 昭和三五年 ○国民健康保険の世帯主に七割給付(県下最初)を実施。
○人口二五万人を突破。
○よし川公園、千葉公園の市営プール完成。
○稲毛駅に東口開設。
○市制施行四十周年式典挙行。
○医師会、毎月第四日曜日を休診とする。
○ディーゼル機関車運転。
○川崎製鉄千葉製鉄所、第二期工事完了。
○長沼原農業組合でスプリンクラー施設導入。
○二宮産業(株)寒川より長沼へ移転。浜野に赤原鉄工(株)千葉工場建設。
一九六一 同三六年 ○市役所の文書を横書きに統一。
○内陸工業地帯の開発に着手。
○稲毛海岸の埋立て起工。
○千葉市中央卸売市場、問屋町に開設。
○村田にし尿処理場完成。
○千葉港に四万トンの巨船入港。
○皇太子殿下ご来市、川崎製鉄などご視察。
○生浜漁協の漁業補償が妥結。
○千葉商工会議所会館建設。
○幕張埋立地に三好石綿工業(株)進出。六方にサンアルミニュウムエ業(株)進出。
一九六二 同三七年 ○千葉南警察署スタート。
○移動図書館、巡回を始める。
○千葉県庁の新庁舎完成。
○平山滋春助役退任、新助役に荒木和成、佐久間正夫就任。
○六方に、日東紡建材(株)千葉工場操業開始。千葉鉄工業団地協同組合結成。
一九六三 同三八年 ○新市庁舎完成(現千葉県企業庁舎)。
○県スポーツセンター着工(天台)。
○泉町、千葉市に合併。
○国鉄千葉駅、民衆駅として移転開業。
○老人バス運行開始。
○千葉製鉄所専用工業用水第一期工事完成。
○ショッピングセンター開業。
○千葉漁協の漁業補償が妥結。
○京葉臨海鉄道運転開始。
○県農業試験場、大膳野に移り、農業センターを形成。
一九六四 同三九年 ○市の住居表示制度スタート。
○電話の局番二ケタになる。
現代 一九六四 昭和三九年 ○国民健康保険全家族に七割給付を実施(全国で三番目)。
○人口三〇万人突破。
○オリンピックのクロスカントリー競技検見川で行われる。
○千葉市開発財団設立。
○犢橋にし尿処理場できる。
○房総西線千葉――浜野間、複線自動化。
○総武線電車一〇両編成(一〇一型)の運転開始。
○千葉県は、千葉港中央地区(出洲地先一八〇万坪)の海面埋立許可を受け、起工。
○臨海工業千葉地区の埋立工事八三パーセント進捗。
○東京靴下団地協同組合結成(越智町)。
○市立養護学校設立。加曽利南貝塚発掘。
一九六五 同四〇年 ○歩道橋の第一号完成(鶴沢小学校前)。
○市の予算総額百億円を突破。
○中央公園完成。
○千葉港、特定重要港湾に指定される。
○皇太子殿下、加曽利貝塚ご見学。
○市制施行四十五年記念式典挙行。
現代 一九六五 昭和四〇年 ○幕張漁協、検見川漁協の漁業補償が妥結。
○国鉄千葉――四街道間、複線自動化。
○東千葉駅開設。
○川崎製鉄千葉製鉄所粗鋼年産六五〇万トン体制確立。
○土気町に上原食品工業(株)、長沼原に住友重機工業(株)進出。
○農業構造改善事業により機械化、合理化促進。
○淑徳大学設置。
○社会センター開館。
一九六六 同四一年 ○京葉道路、幕張まで開通。
○出洲地区の埋立て終わる。
○市立葛城育成園開園。
○市役所の機構大改革。
○乳幼児に無料で破傷風予防接種。
○初めて市内に自動車の駐車禁止区域を設定。
○消防レーンジャー部隊発足、大型ハシゴ車配置。
○道路清掃車を配置(全国で二番目)。
○千葉市内陸企業連合会発足。
○矢作に利根コカコーラボトリング(株)進出。
○海洋公民館「こじま」開館。
○加曽利貝塚博物館開館。
一九六七 昭和四二年 国立中央技能センター、六方町に開所。
○検見川海岸埋立て開始。
○電話、ダイヤルで全国通話可能となる。
○国民健康保険、八〇歳以上に九割給付を実施。
○市議会の公害対策、交通対策特別委員会スタート。
○市学校給食センター完成、中学校の完全給食実施。
○交通対策課。公害課発足。
○千葉港、中央公共埠頭埋立開始。
○国道一四号線幅員を拡張し、一部開通。
○京成「国鉄千葉駅前駅」開業。
○千葉市企業誘致条例廃止。
○新港に、千葉共同サイロ(株)、日本サイロ(株)、大洋飼料(株)、横浜造船(株)、千葉製粉(株)進出。
○六方町に、大成プレハブ(株)、長沼町に東日本高圧(株)進出。
○千葉そごうデパート、国鉄千葉駅前に進出。
○文化の森に、県文化会館、市郷土館開館。
一九六八 同四三年 ○皇太子殿下、農業試験場などご視察。
一九六八 昭和四三年 ○内職補導センター開所。
○人口四〇万人を突破。
○精薄児の通園施設「大宮学園」開園。
○中央下水処理場稼動開始。
○北谷津に清掃工場完成。
○葛城病院を改築、市立病院と改称。
○乳牛育成牧場、富田町に完成。
○稲毛公設小売市場開場。
○稲毛漁協の漁業補償妥結。
○千葉市鉄工業団地完成。
○総武本線、成田線、千葉――成田間電化。都賀駅開業。
○房総西線、千葉――木更津間電化。
○新港に山崎製パン(株)、サミット製油(株)、東洋製油(株)進出。
○園生町に白鷺燐寸製造所進出。
○県立中央図書館、文化の森に完成。
一九六九 同四四年 ○都町に交通公園できる。
○泉自然公園開園。
○土気町、千葉市に合併。
○老人いこいの家、北谷津に完成。
○土気地区の初市議選実施。
現代 一九六九 昭和四四年 ○人口四五万人を突破。
○名誉市民条例制定。
○昭和の森(土気森林公園)建設決定。
○国道一六号線、長沼――柏間一部開通。
○京葉道路、殿台まで開通。
○千葉市工業センター協同組合結成。
○卸売商業団地完成(問屋町)。
○新港に、横河橋梁製作所、参松工業(株)進出。
○市内澱粉製造業消滅。
一九七〇 同四五年 ○カナダのノースバンクーバー、パラグァイのアスンシオンと姉妹都市締結。
○市制五十年記念と新市庁舎落成記念式典挙行。
○宮内三朗市長退任を表明、市長に荒木和成当選。
○初の名誉市民に宮内三朗前市長なる。
○市の行政機構を大改革。コンピューター導入。
○市内五カ所に市民センター連絡所設置。
技能オリンピック、六方町の国立中央技能センターで行われる。
○銀座通りで初の歩行者天国開催。
○主要企業一〇社と公害防止協定締結。
○「市政五〇〇ばん」スタート。
現代 一九七〇 昭和四五年 ○新都市計画法による、市街化区域と市街化調整区域を決定。
○千葉市の商業販売額三、〇四八億円に達し。卸売商圏を拡大する。
○弁天地下道開通。
○八〇歳以上の老人医療費を無料とする。
○川崎製鉄千葉製鉄所増設に関する協定書締結される。
一九七一 同四六年 ○土気トンネル貫通。
○京葉道路宮野木より、成田国際空港道路開通。
○千葉市北部図書館開館。
○全国花いっぱい大会開催。
一九七二 同四七年 ○房総環状線CTC化。
○東京――津田沼間複々線化、快速、特急運転。
○千葉――徳島間に長距離フェリー就航。
○ニューナラヤ、国鉄千葉駅前に進出。田畑百貨店売場面積四万平方メートルを申請。
○千葉市工業センター団地造成完了。
一九七三 昭和四八年 ○百万都市計画を開始。
○旧国鉄千葉駅跡地に市民会館開設。
二八回国民体育大会千葉市を中心に開催。
○市立南部青少年センター開設(附設千葉市南部図書館)。