歴史は過去を記すもののみでなく、未来をはらみ現代に語りかけるものである。
千葉市は今や人口六十万、市勢の発展まことにめざましく、その繁栄は遠い将来にわたってもいっそう期待される現状にあるが、永遠の歴史を半世紀という一時期で劃し、ここに一つの年輪を刻み、改めて未来への雄飛をはかろうとしている。この重要なときにおいて、単なる懐古趣味におちいることなく、生々躍動する市勢の歩みを歴史にとどめることは、現代に生き未来を展望すべき私どもに課せられた大切な義務であろう。
昭和四十四年度に迎えた市制五十年記念事業の一環として、市史編纂が企画された所以は、一言にしていえばここに存するものであるが、より具体的には次の三点においてその意義と必要性を見出すことができる。
その一つは、旧版後二十年間の歴史的意義と都市形態の変化である。千葉市においては去る昭和二十五年、市制三十年を記念し、県内他市にさきがけて「千葉市誌」の編集に着手し、三ヵ年の歳月を経て刊行された。その内容は太古より現代におよび、市域の変遷と現状が直視されて、記念事業としてはまことにふさわしい成果をあげ得た。ただその記述が、戦後まだ日浅くして混乱いまだ癒えやらぬ昭和二十五年をもって終了し、以後現在にいたる二十年間が欠けていることである。
詳言するまでもなく、ここに空白とされている二十年間は、単に平凡無難な時間の累積ではなく、本市の発展にとって画期的な意義をもつ重要な時期であった。すなわち戦災の焦土よりようやく復興した千葉市が、近代的生産都市への脱皮をめざして、まず川鉄の誘致に成功し、その後幾多の曲折苦難を経て京葉工業地帯の中枢として、あるいはまた国際港千葉として大きく発展し、今後の市勢ますます洋々たる希望と、期待に溢れるまでに至った期間である。
この二十年間の歴史こそ、本市が静より動への転換をなし得た意味で、きわめて重要な意義をもつものであり、その苦闘発展の過程は後代の指針というべきで、これをいま記録せずしていつの日か好機を得られるであろう。
市制五十年の歩みは、この二十年間の焦点づけによってその評価を確定し得るものであり、まことに修史の絶好の機会というべきである。
二つめは、合併による市域の拡大である。この二十年間には市勢の発展とともに、隣接町村の合併が行われ旧千葉郡幕張町・犢橋村・泉町・生浜町・誉田村および山武郡土気町の六町村が、大千葉市を構成する一翼となった。したがって名実ともに「千葉市史」といい得るためには、これら合併地域の歴史もまたこの際にぜひ明らかにされねばならない。
三つめには、新史実の発見である。旧版以後の二十年間における文化財の発見や調査結果は、たとえば世界的価値をもつ加曽利貝塚やその他の遺跡のごとく、学術上の見地からも追加収録すべきものが多く、また古文書等の新発見による史実の追加、旧説の訂正等加筆すべきものもきわめて多く、前回紙数の関係で割愛した内容をこれに加えれば、旧版収録の範囲においても大幅の増補訂正は必至である。
このように、さきに刊行された『千葉市誌』を基としながらも、旧版以後の二十年間について、市政躍進の基盤をなす重要意義や合併六町村の歴史を明らかにし、現在までの発展の跡を回顧しつつ、百万都市建設の希望に満ちた未来を展望して、今後の千葉市政発展に寄与するため、市制五十年記念事業の一つとして宮内三朗前市長の企画により、「千葉市史」の編纂が決定されたのは、今を遡る五年前昭和四十四年の師走であった。
この市史編纂事業は、教育文化を受持つ教育委員会が、旧市誌編纂の実績もあって所管することとなり、即刻「千葉市史編纂委員会」が設置された。その構成は旧市誌編纂委員会を主体として、次の七名が市長より委嘱された。
委員長 楠原 信一 (元千葉市教育委員会 教育長)
※昭和四十五年四月鈴木三郎委員より引継ぐ。
委員 市原 権三郎 (千葉大学教育学部 教授)
同 菊地 利夫 (千葉大学教育学部 教授)
同 鈴木 三郎 (前千葉市教育委員会 教育長)
同 武田 宗久 (県立千葉高等学校 教諭)
同 和田 茂右衛門 (郷土史家 市文化財保護審議員)
同 鶴岡 清 (千葉日報社 常務)
※昭和四十六年十月野村泰委員より引継ぐ。
また、編纂委員会を補助し庶務的事務を処理するため、教育委員会教育長室内に事務局が置かれ、その職員をもって兼務させることとなり、事務局には側面的協力を得るため、幹事として市吏員三名が加えられた。
編纂委員会は、毎月一回定期的に開催されることになったが、会議を重ねるにしたがい、執筆者たる委員の活動を補助させるための協力者が必要となり、順次調査協力員が委嘱されていった。
第一回の編纂委員会は、その前途を祝福するごとく雲ひとつない日本晴れの昭和四十四年十二月二十三日に開かれた。そこでは、
一 内容は市民一般を対象として読み易くし、しかも学問的水準を低くすることなく格調高いものとする。
二 旧版に欠けている二十年間の記述にあたっては、一般的な歴史・地理的観点に加えて市政の推移も重視していく。
三 旧版全編にわたり加筆増補し、委員の執筆分担は旧版による。
など、編集の方針が決定し、これによって執筆分担ならびに調査協力員が次のようにきめられた。
第一章 自然環境 菊地 利夫
第二章 原始・古代 武田 宗久
後藤 和民 (千葉市加曽利貝塚博物館学芸員)
土屋 賢泰 (県立千葉東高等学校教諭)
宍倉 昭一郎(市立千葉高等学校教諭)
庄司 克 (千葉市加曽利貝塚博物館)
第三章 中世 市原 権三郎
川戸 彰 (千葉県県史編さん室係長)
第四章 近世 市原 権三郎
川村 優 (千葉県県史編さん室室長)
渡辺 孝雄 (県立千葉商業高等学校教諭)
第五章 近代 鶴岡 清
川口 得久 (千葉日報文化部)
鶴岡 さと子
菊地 利夫
木島 与左衛門(県立柏高等学校教頭)
鳥海 公 (千葉大学附属中学校教諭)
森山 要 (県立千葉女子高等学校教諭)
岩瀬 和博 (県立千葉高等学校教諭)
近藤 代 (県立千葉高等学校教諭)
鈴木 三郎
喜多 歩 (市立千葉高等学校教諭)
曾川 定雄 (市立千葉高等学校教諭)
第六章 現代 菊地 利夫
木島 与左衛門(県立柏高等学校教頭)
鳥海 公 (千葉大学附属中学校教諭)
森山 要 (県立千葉女子高等学校教諭)
吉野 久義 (千葉県教育庁)
小池 能雄 (市立高洲中学校校長)
鈴木 三郎
喜多 歩 (市立千葉高等学校教諭)
鶴岡 清
川口 得久 (千葉日報文化部)
第七章 民俗と生活 和田 茂右衛門
宍倉 健 (郷土史家・市文化財保護審議員)
安藤 一郎 (市立千城台西中学校教諭)
高橋 淳子 (市立川戸中学校教諭)
西川 明 (市立轟町中学校教諭)
平野 馨 (千葉県教育庁文化課主査)
明けて昭和四十五年正月、第二回の編纂会議において年次計画が策定され、各委員は分担にしたがって資料の収集にとりかかった。しかしいずれの委員も公職をもつ身であるから、調査や資料探訪などは時間的に困難をきわめ、その進行は遅々として進まないのが現状であった。しかしながら各委員の市史に寄する熱情はさながら炎の燃ゆるごとく、寸暇も惜しまず着々と計画を遂行していった。
特に武田委員は、休日をも返上して大椎城跡の測量、あるいは廿五里南貝塚の発掘などを強行し、すばらしい成果をあげた。また、和田委員は少ない予算を足でうめ合わせようと、近世・近代の古文書を探訪して、土気・仁戸名・若松町等々東奔西走の奮闘であった。
しかしながら空白二十年間の変転は、このような面にもおよび、当然あるべき筈の場所に発見できなかったときの落胆ぶりは、筆舌に尽くせないものがあった。
このようなとき、鈴木三郎委員長が教育委員会教育長の要職に就かれたため。楠原信一(前教育長)がその任をうけ継ぎ、更には教育委員会事務局の機構改革もあって、笹本武雄事務局長から金親俊太郎事務局長へとバトンがタッチされたが、関係者の結束は固く事業の完遂をめざして努力が傾注されていった。
この苦離な探訪や調査によって。次々と新事実が発見されていった。加曽利貝塚発掘による史実の発見・千葉市関係史料調査に伴う中世史料の発見・あるいは市域拡大による近世・近代古文書の発見である。このような証明史料を得るべく遠く南へ熊本・佐賀、北へ岩手と飛んだことも幾度か。
また急激な都市開発によって、史料の湮滅の危機も予想され、考古資料・歴史資料の調査と整理の必要性もあって、事業の改定が余儀なくされ、旧版三割増補という計画は、通史三巻・史料編一巻としてまとめることとなった。
昭和四十七年六月、収集された資料の吟味を土台として内容の細目調整がなされ、執筆の具体的な基準がたてられて、いよいよ執筆の段階に入っていった。
委員長をはじめ各委員は、提出された山のような原稿を取捨選択、何回もの徹夜にわたる編集会議を経て完成原稿へ、完成原稿へと近づけていった。そして昭和四十八年四年目の師走、いざ印刷という段階で一つの暗礁にのりあげた。それは中東戦争を契機として起こった紙の不足・印刷費の値上がりという事態である。しかし帝国地方行政学会の献身的なおほねおりにより、予定どおりの刊行に漕ぎつけることができた。
ここに「千葉市史」の完成を見るとき、何よりもまずこの事業を企画され、御尽力あられた宮内三朗前市長に感謝をせねばなるまい。この市史を見ずして他界されたことは、まことに惜しみてもあまりあるものがある。心から御冥福をお祈りする次第である。
次にこの編纂にあたって。市民各位から寄せられた深い御理解と御協力に対し感謝を申しあげたい。とりわけ貴重な資料をおしげなく提供くださった関係の方々に、心から御礼を申しあげる次第である。
なお、この事業を推進するため、日夜をわかたぬ御活躍をいただいた事務局の今井公子・竜崎純夫両係員、帝国地方行政学会の志野木謙二編集員の熱意に感謝の意を表したい。
今や編集委員会はようやくその任を終えて、六十万市民にこの「千葉市史」をおくる日の来たことを無上の光栄と喜びをもって迎えるものである。今後の千葉市発展の礎石として、市民各位のひろい御活用と御批正を希い、あとがきとする。
昭和四十九年三月
千葉市史編纂委員会
委員長 楠原 信一