院内町(いんないちょう)

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 当町の妙見様、いまの千葉神社の御祭礼場(大庭)、院内公園の一隅に祀られている香取神社は仁和元年(八八五)九月、土民によって勧請されたと伝えられている。つづいて長保二庚子年(一〇〇〇)九月、平忠常の二男・覚算(俗名恒遠)が星の神すなわち妙見尊を祀ってからは、香取神社と星の神の門前部落として栄えてきた。この町はこのように古い部落である。

 さて、院内という町名はいつ頃から起ったか、ということであるが、何度かの火災で、社も寺も氏子も焼けているので、古い文献資料などはほとんど残っていない。わずかに残った二、三の文書でみると、つぎの通りである。

 ○寛文九己酉年(一六六九)六月  「穴川野地」(1)訴訟文書・和田家蔵 千葉妙見寺門前

 ○享保二丁酉年(一七一七)七月  「穴川野地」取替証文・和田家蔵    千葉妙見寺領

 ○享保九辰年(一七二四)九月   「穴川野地」一札・和田家蔵      千葉町妙見寺領

 ○享保十五庚戍年(一七三〇)   「穴川野地」野銭割・和田家蔵     千葉町妙見寺門前

 ○天明七丁未年(一七八七)十月  大巌寺鐘楼起立勧進帳・大巌寺蔵    千葉院内

 ○天保三辰年(一八三二)九月   「穴川野地」・和田家蔵        院内

 ○明治四年(一八七一)三月    未年宗門御改帳・和田家蔵       千葉院内

 以上のほかに、天保四年(一八三三)「妙見寺門前水帳写」がある。これには屋敷地に該当する地域の小字名が記してないが、ただ、屋地が境内の一部であって、院内と呼ばれたと推定される。

 院内は、古くは門前と呼ばれ、つぎに院内とかわり、明治二十一年(一八八八)、町村制改正のとき院内区となった。

そして大正十一年(一九二二)町名改正で院内町と変った。


挿図1 千葉神社本殿 院内町


挿図2 徳川家康寄進状(写) 千葉神社蔵