三町は明治末期までは、千葉の繁昌地であった。『千葉盛衰記』(1)、『千学集』(2)などの古い本によると、「表千軒裏千軒」と書かれている。文化・文政ころに歌われたという町名歌込大津絵節には「表三丁裏三丁」とある。また天明七年(一七八七)千葉の米屋うちこわし事件のとき、うちこわされた家々の内に、表上町所左衛門、同湯屋万右衛門等々とある。また同事件の「御仕置帳」に、「千葉仲町六右衛門江申渡事」とあって、この仲町は六右衛門家の位置から考えて、表仲町の略かと考えられる。
明治五年(一八七二)の「壬申戸籍帳」によると、本上町、本仲町、本下町となっている。このことから考えて、古くは表町と呼ばれ、三町に分れておらず、戸数が増加してきたので三町に分町し、表上町、表仲町、表下町となり、それが本上町、本仲町、本下町と変ってきて、明治二十一年(一八八八)町村改正のとき、本町一丁目、本町二丁目、本町三丁目と改められ、今日にいたったと推定できる。
- 註1 『千葉盛衰記』著者不明、徳川中期、『千葉実録』とほとんど同文、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 2 『千学集』著者不詳、天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。