この町の名について『千学集』(1)や『千葉盛衰記』(2)などをみると、大治二年(一一二七)頃は御達報村と呼ばれている。また『千葉八百年紀』(3)には、御段保としてある。
今井町の福正寺の過去帳その他を調べると、つぎのような村名が判明する。
○文禄三甲午年(一五九四)三月 御達報検地水帳・稲荷町区有文書 御達報村
○明暦二丙申年(一六五六)三月 〃 〃 〃
○貞享四丁卯年(一六八七)正月 訴論訴状 〃 千葉寺村新田
○寛文九己酉年(一六六九)三月 〃 〃 〃
○元禄四未年(一六九一)四月 御検地御縄入水帳 〃 御達報村
○元禄九年(一六九六)霜月 検地水帳 〃 御達浦村
○享保八年(一七二三) 水帳 〃 〃
○宝暦八年(一七五八)正月 水帳写 稲荷町区有文書 御達浦村
○文政二卯年(一八一九)二月 名寄帳 〃 後達宝邑
○延享五年(一七四八) 福正寺過去帳 福正寺蔵 五反保
○寛延四年(一七五一) 〃 〃 〃
○ 〃 (〃) 〃 〃 千葉寺村新田五反保
○宝暦五年(一七五五) 〃 〃 五反保
○安永七年(一七七八) 〃 〃 〃
○寛政三年(一七九一) 〃 〃 〃
○天明元年(一七八一) 〃 〃 五田保
○天明四年(一七八四) 〃 〃 〃
○文政十二年(一八二九) 〃 〃 〃
○天保三年(一八三二) 〃 〃
以上のほかに明治七年(一八七四)八月の書類には、「千葉寺村内五田保」とある。また、伊能忠敬の「地図」には、「後田」と書き込まれており、『沿海測量日記』(3)によると、享和元年(一八〇一)六月二十一日の頃で「寒川村(此村駅場なり)千葉村新田、後田方(両村入会)云々」とある。この千葉村新田とは千葉寺村新田の誤りであろう。
昭和十一年(一九三六)千葉市の町名改正のとき、稲荷神社の社名をとって稲荷町と改められた。
この村は、千葉寺村の新田で、文政九年(一八二六)千葉寺村の門前の人々が分村して、五田保村を作ったことが、稲荷町町有文書のうち天保十五年(一八四四)の「村方文書類目録帳」に記載されている。この書付が正当だとすれば、文禄三年(一五九四)の水帳は、どう説明すべきか、なお研究の余地を残している。しかしながら、昭和十一年以前は、千葉町大字千葉寺字五田保と呼ばれており、行政的には五田保区として独立し、地域的には千葉寺村の新田地だったということになる。
- 註1 『千学集』著者不詳、天正時代(一五七三~一五九一)、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 2 『千葉盛衰記』著者不明、徳川中期、「千葉実録」とほとんど同文。『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 3 『沿海測量日記』伊能忠敬著、寛政十二年~文政元年、原本は佐原市伊能家蔵、『改訂房総叢書』第四輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。