寒川町(さむがわまち)

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 町名について、いろいろの本から、その記事を抜き書きしてみる。

 「承平二年(九三二)平良文が常陸の国に兵を進めんとして、鎌倉稲村ヶ崎より乗船して、結城が浦へ上陸せんとせしも云々」と『千葉家増田系譜』(1)、『千葉盛衰記』(2)に出ている。

 また、「治承四年(一一八〇)源頼朝一党と此の地に足跡を印して、結城の野に白旗を立てる」とあって、今の新宿町の白旗神社がその古跡であるといわれている。

 寛文九年(一六六九)六月の『穴川野地』(3)という資料に、寒川村と記載されている。天保六年(一八三五)に書かれた『成田参詣記』(4)には、「寒川村は、相伝えて天正以前までは、結城と呼ばれし里にて、此の地方の野を今も結城野と称し、結城山萬蔵寺という寺もあり」とある。このほかに結城稲荷(いまの白旗神社)、結城神明(いまの神明神社)などの名がみられる。

 つぎに、嘉永七年(一八五四)三月に初稿された『神野山日記』(5)にも、「寒川の宿に千葉川といえる小川あり云云」と、また伊能忠敬の地図には、「後田村、千葉新田、寒川、黒砂」と書き込みがある。船橋図書館所蔵の古地図にも「今井、結城、さん川、黒砂」と書き込まれている。

 天正三年(一五七五)八月出版された『鴻の台合戦草子』(6)にも、「冒夜出小弓結城、三川、稲毛気見川三川則寒川其南呼結城野」とある。

 天保末年に発行された『房総三州漫録』(7)に、「寒河白旗神社あり、頼朝公此の所に旗を立てて、常胤を召し給へり。河あり大河という。橋を大橋と称す。橋より此の方を向寒川という。橋を渡りては、本寒河という。頼朝千葉に到着のとき今朝は寒いと云いしより寒河というとぞ」とある。

 以上を総合してみると、江戸期以前は結城と呼ばれ、以後は三川、寒川と変ってきたものと考えられ、また結城三川と別々の部落があったとも考えられ、いま一段の研究をしたいと思う。


挿図8 寒川神社 寒川町