神明町(しんめいちょう)

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 この町は、古くは結城野と呼ばれていた。新宿町の白旗神社が、もとは結城稲荷と称したと古老が伝承している。

 『千学集』(1)には、「結城舟は、天福元年(一二三三)七月二十日、千葉時胤のとき妙見祭礼の御浜下りの送り舟として、結城の村督(むらおさ)宍倉出雲守永鏡のため造らる」。また「結城に神明の祠あり、式内の社ならん」とあって、邨岡良弼の『千葉日記』(2)では、「天正年間までは、結城と称せし所なり」と書いている。

 町内の神明神社にのこる古い棟札には、つぎのものがある。享保六辛丑年(一七二一)十月伊勢神明宝殿の棟札には、「下総国千葉郡向寒川村惣氏子」とある。また、享保十五庚戍年(一七三〇)七月の棟札には、「向寒川別当神明寺光明院」、さらに降って宝暦五乙亥年(一七五五)七月の棟札の裏面には、「大日本国三千百三十余座之内下総国千葉郡寒川之神社也向寒川」と記してある。

 以上のように、『千学集』によると、天福元年以来の結城村が、『千葉日記』では天正後に向寒川と変り、昭和十一年(一九三六)の町名改正のときに鎮守の社号を取って神明町に変っている。

 なお、向寒川は、川を距てた向う部落なので向寒川と呼ばれた。都川の南側の寒川よりも北側の向寒川が古くから開発されていたことが考えられる。