吾妻(あずま)一丁目、二丁目、三丁目

32 ~ 34/211ページ

 天保七年(一八三六)四月六日に提出された裏町不動堂正面横丁下水問題文書に、吾妻町を裏町と呼んでいる。三丁目を明治六・七年頃までは裏下町と呼んでおり、享保のころは民家が数戸だったので三軒町といい、また、天和二年(一六八二)ごろ大久保加賀守の御殿があったので、御殿前とも呼ばれていた。

 町内に千葉宗胤が建立したという宗胤寺があった。いまは弁天町に移転している。

 二丁目は三丁目と同じく裏中町とよばれていた。文化三年(一八〇六)十二月の日付の「羽衣松売買証文一札の事」という証文の宛名に、「千葉裏中町忠蔵殿」と記してある。

 深川元㒞の『房総三州漫録』(1)には、「辺田法道寺に鬼門除けの不動ありしを、千葉村の裏町なる妙見寺持の不動堂となり、法道寺は今地名となれり云々」とある。深川元㒞は天保時代の人である。

 明治五年(一八七二)の「壬申戸籍」にも裏中町とあって、変るのは明治二十一年(一八八八)の町村制改正のときからであって、吾妻町二丁目となった。吾妻町一丁目も同様に変っているようであるが、詳細がわからない。

 さて、町名の吾妻という言葉は、一般にいわれているのは、日本武尊の「ああ、吾が妻」と呼んだことで「吾妻」の地名ができたとする話であるが、この土地が関係があるかを考えてみると、竹野長次氏はつぎのような解説をしている。「アは偉大さを現わす美称で、ヅマは端の意味であって、ある時期における大和朝廷の勢力範囲の東端を示すものだろう」。

 また、別の見方がある。アヅマは南方海岸民族の安曇族(あづみぞく)の土着に関係があるとする見方である。

 千葉の吾妻が、いかなる経緯で、裏町から突然、吾妻町と変ったのか、いろいろ調査をしてみたが、これを解説できるような手がかりが見出せない。しいてその関係を求めるならば、千葉家の一族の東胤頼のやかたの所在が考えられるのであるが、それも、千葉駅の西北台地がそれであったようだから、これも無関係と考えるべきであろう。

 なお、当町には古くから、妙見寺境外仏堂の光明寺の不動堂がある。