この町は、千葉神社前広小路から富士見橋に至る市街地で、大日寺の門前百姓が多かったようである。
古くは、江戸街道と呼ばれ、登戸港に通じる街道であった。文政二卯年(一八一九)十月、金親村名主大平治のせがれ新蔵の書いた「殿様金光院御成実記」(1)のうちに、「右之通千葉町江戸街道中村屋太右衛門方にて」とあって、その当時江戸街道と呼ばれていたことが判る。それが明治二十一年(一八八八)町村制改正の際に通町と改たまった。通町と名付けた意味は、登戸港までの旅行者、荷物運搬の小荷駄馬で賑わったので、つけられた名称であろう。町内には大日寺があった。いまは轟町に移転している。
- 註1 「殿様金光院御成実記」金親町大平治伜新蔵著、文政二年十月、金親町松本家蔵。