この町は、新宿町と同じく結城村の一部であったと考えられる。いつのころからか、寒川新田と呼ばれるようになっている。新田町の鎮守である道祖神社の境内に狛犬がある。その狛犬の台石には、天保十四癸卯年(一八四三)十月吉日と年紀を明かにした伊勢詣り同行の人々の奉納銘が刻んであって、「寒川新田」となっている。また別の台石には年代不明で「寒川村新田」という村名を読むことができる。この道祖神社がいつの創建であるかは明らかでない。
すこし話がそれるが、道祖神について考えてみると、柳田国男の『民俗辞典』(1)によると、「一般に塞神(さえのかみ)と呼ばれ、また道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれる。古くは塞神、訖神、道神とも記されている。猿田彦命に附会したり、種々の説をなすものがあるが、その名の如く、元来防塞の神であって、外から襲い来る悪霊悪神などを村境、峠、辻、橋のたもとなどで防ぐの意であり、また生者と死者、人間界と幽冥界の境を司る神の意である。(中略)またそこには人馬の従来繁く、子供の集り遊ぶ所ともなり、市などの開設とも関係するため道祖神は村人の運命を知り、縁を結び、子供と特に親しい神となっている。」とある。
信仰的に考えると、道祖神が路傍に祀られているところから、旅の安全を祈願し、旅に出て足が達者であるようにと草鞋(わらじ)を奉納する例は各地に見られる。
新田町の道祖神は、古くは登戸村との境に近く、街道沿に祀られていたものが、ある事情で現在の地に移された。以前は祭礼ごとに大きなわらじが奉納されていた。
ところで、今も昔と変らぬようなことがある。昭和四十年四月十一日に交通安全を祈願して祭典が施行された。そのとき小さなわらじを和楽路と宛字して、これに守礼を付けた。いまの交通戦争の時代に似つかわしい行事だとみてきた。
この神社の境内には、街道沿に建てられていたと思われる阪東三十三番観世音霊場詣の参詣者の道標(みちしるべ)が野趣豊かな手法できざまれている。これには「宝暦十二壬午年(一七六二)三月吉日阪東廿九番ちばでら江是より十八丁」の銘がある。はじめは結城村と称したが、いつか寒川村とかわり、その寒川村に新たに開けた場所なので新田と呼ばれ、町名改正のとき新田町となった。
- 註1 『民俗学辞典』柳田国男監修、昭和二十年、東京堂出版。