袖ヶ浦に面した海岸沿いの町で、江戸時代から明治二十七年(一八九四)まで港町として繁昌した土地である。
登戸の町名の起りは、名主鈴木利右衛門家の家譜に「筑波根の峰の嵐を吹きおろすふじの波間を乃ぼり戸の船」という千葉新介御歌から形どって登戸村と名付くとある。その家譜のうちに、元祖利右衛門重基の項で「天正年中寒川村より登戸村江住居す。登戸村慶長二丁酉年(一五九七)御縄入開発御料所御支配嶋田治兵衛」とあって、村の創設時を明記している。
天正年中に寒川村より登戸村へ移るとしてあるところから考えて、登戸村はその以前から部落はあったものと推定される。登戸村の読み方については、相模国の登戸は「のぼりと」読むが、下総の登戸は「のぶと」、「のぼっと」と訛っている。
ちなみに、宝永三丙戍年(一七〇六)の「浜野本行寺庫裡改築奉加帳」に「野婦戸村」とある。
それでは、歌を作った千葉新介という人を、『千葉大系図』(1)で調べてみると、新介を称した人は、千葉六代の千葉胤政、千葉一胤、胤将の三名で、一胤はすなわち高胤のことで、貞胤の嫡子であり、氏胤の兄。父貞胤も、弟氏胤も歌道に通じていたから、一胤に作歌があっても不思議はないと思われる。胤政、胤将の作歌は聞いていない。胤将は胤直の長子で、多古で父と共に討死している。こうしたことを考えあわせると一胤の作歌で、歌をよくする千葉新介であると推定してよいであろう。
それでは一胤はいつごろの人かというと、建武三年(延元に改元―一三三六)に三井寺の合戦で戦死しているので、その以前に読まれたことになる。
町名もまたこの歌からとったものであるといってよいだろう。
- 註1 『千葉大系図』作者不詳、寛永年間、『改訂房総叢書』第五輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。