この町の宝蔵院は、宝亀五年(七七四)に開基の寺といわれている。古い町であって、『千葉盛衰記』(1)には治承四年(一一八〇)に検見川町を流れる花見川という川名に因んで、華見川村と呼ばれていた時代もあったことが記してある。
「八坂神社縁起」によると、いまの八坂神社の前身の嵯峨神社が、兵部少輔平春頌によって承平四年(九三四)花輪の台(または花輪の森)に建立されている。また、この地が「葛飾の原」と呼ばれていたことが何れかの著書に記されていた記憶がある。
永正六年(一五〇九)七月、奥州白河の関に遊んだ宗良法印の『東路の土産』(2)という紀行文の一節に、「千葉村をたちて、気見川という所に浦風余りに烈しければ、一宿して翌日市川の渡を経て、葛西の善養寺に着す」とあって、これでみると、永正六年のころには気見川と書かれたこともあったと思われる。
以上で町名も、葛飾の原、花輪の台、気見川(けみがわ)、華見川(けみがわ)、検見川(けみがわ)と変化してきたものと思われる。また、天文七年(一五三八)十一月に書かれたと思われる『小弓御所様討軍物語』(3)には、「けき川」と書かれている。
- 註1 『千葉盛衰記』著者不詳、徳川中期、「千葉実録」とほとんど同文、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 2 『東路の土産』柴屋軒宗長著、永正六年、『改訂房総叢書』第五輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 3 『小弓御所様討軍物語』作者不詳、天文七年十一月、『改訂房総叢書』第一輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。