この町の鎮守、子安神社の棟札に、建久四年(一一九三)九月十七日再建と書き入れられているところからみて、少くとも七百八十年ほど前から村ができていたことがわかる。町名については、古くは旗村と書かれた時代があって、この旗村については、治承四年(一一八〇)源頼朝がこの地を通過の際に源家の白旗を押立てたので旗村と呼ばれたという説もある。
また松尾俊郎氏の著書『集落・地名論考』(1)によると「秦野、波多、幡多のハタは、畠の意にもとられるが、また大陸からの移住民すなわち秦氏の帰化居住から出たものが多いとされている」とあって、この町の旗村、畑村も帰化民族と関係のある地名と考えられるのではないだろうか、とにかく、子安神社の建久四年の棟札には、畑村と銘記されている。秦が旗に、さらに畑に変化してきたと考えることには無理があるだろうか。
- 註1 『集落・地名論考』松尾俊郎著、昭和三十八年、古今書院刊。