この町の宝憧寺は、大同元年(八〇六)に宥恵法印によって開基されたと「宝憧寺縁起」に見え、海隣寺と阿弥陀寺はともに文治二年(一一八六)、鎌倉初期に千葉常胤の檀那で、了空法印の開基創建であると、「阿弥陀寺縁起」にある。
つぎに町名は、往古は千葉郡大須賀荘須賀原と呼ばれ、永仁二年(一二九四)には大須賀荘幕張本郷と称し、永仁六年(一二九八)四月十四日の素加神社棟札でみると千葉郡大須賀庄本郷となっている。文安二年(一四四五)馬加康胤のときに馬加郷と改められ、十年後の康正元年(一四五五)『素加天王記』の内には須賀本郷と書かれており、降って永正五年(一五〇八)九月、「素加天王社神官文書」によると、千葉郡中須賀庄本郷馬加新間宿とある。なおこれから二四八年後の宝暦六年(一七五六)の素加神社棟札には千葉郡本郷須賀ノ庄馬加宿とある。
享和二年(一八〇二)三月には、千葉郡馬加村としてあり、文化五年(一八〇八)十二月「本社末社之社格祭式」には、表紙に幕加郷、末尾には千葉郡本郷中須加庄馬加宿とある。
要するに、永仁二年の幕張本郷が文安二年に至って馬加郷と改まり、永正五年には庄名も中須加と分割が考えられ、馬加新間宿と新田ができたようである。
また「東医寺略縁起」(1)をみると、千葉郡幕割村とあって、源実朝時代の人で千葉家の末葉と称する人に幕割次郎長胤という者が幕張に住居を構えていたとある。これでみると、大須賀荘須賀原が幕張、幕割、馬加と変化したことが知られる。
伝承としては、幕張は、頼朝が通過の途中幕を張り廻らして滞陣したときの話からとって幕張というと伝えている。また馬加とは、頼朝通過のとき、馬が不足したので馬を助合したので馬加となったと伝えている。資料からみると伝承には時間的相違点がみられる。
- 註1 「東医寺略縁起」著者不詳、年代不詳、幕張町宝憧寺蔵。