この町には、大同元年(八〇六)興教大師の開基と伝えられている伽罹山三会寺真蔵院という寺があって、古くからこのあたりが開けていたことが考えられる。
往古は、下総国千葉郡池田之庄武石郷と呼ばれ、また天正年間には、葛飾郡武石郷と呼ばれて葛飾郡に属し、元禄年間には、再び千葉郡に復帰したことが諸書にみえている。
『武石系図』(1)によると、「承安元卯年(一一七一)十一月十五日、千葉常胤の三男胤盛武石三郎と称して、下総武石村の武石城に移る」とある。「三代王神社縁起」によれば、建仁二壬戍年(一二〇二)武石三郎胤盛、武石村に館を構えて郷中安全之守護神として三代王神社を勧請、はじめは明神神社と称したと伝承している。また小字の須賀原(いまの小字、検見川道)に愛宕神社の石宮がある。この銘文によると、貞永二巳年(一二三三)三月、下総国千葉郡武石之里とある。
天正十年(一五八二)角田将監が武石村の代官となり、慶安元年(一六四八)武石村は江戸町奉行所与力給与地となると『千葉郡誌』(2)にある。
以下資料にはつぎのものがある。
○享保七年(一七二二)十一月 三代王神社棟札 千葉郡武石村
○享保十七年(一七三二)十一月 〃 武石村
○宝暦八戊寅年(一七五八)八月 神道裁許状・武石町小川家蔵 下総国千葉郡武石村
○宝暦九年(一七五九)九月 差上申一札之事 下総国千葉郡武石村
○天明七年(一七八七)霜月十日 金比羅大権現棟札 〃
○文化八年(一八一一)十月 古地図 武石村
○文政八年(一八二五)一月 三代王神社棟札 〃
また、『幕張町誌』(3)には「本郷須賀の者共、在へ曳移り或は越馬村武石、或は西と名付落替り住故落居杯と申す」とある。
以上の資料から推定して、武石村は開村以来、村名に変更が認められない。ただ一つ、年代不詳の古地図に、北根台、北根、辺田屋、越馬村、西という字名が記入されていて、そのうち北根台は現在の字名と符合しており、北根は広田権現越を指し、辺田屋が寺下、寺台の真蔵院付近を指している。越馬村は仲田、寺台の一部と腰巻を指し、西が大小塚、桶の下にあたる。こうしてみると、古い小字で越馬村と呼ばれていた時代があったのかも知れない。それが承安元年ころから武石村と変ったと考えるのは大変危険なことだと思う。さらに調べてみなくてはならぬが、一応参考までにこのような説明をこころみてみた。
- 註1 『武石系図』 著者不詳、明治二十八年、武石町小川良之助の写本。
- 2 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 3 『幕張町誌』 千葉郡幕張町編、大正五年。