この町は、「あまど」と呼ばれて、川渡しのあった処の地名ではないかと思う。花見川、つまり印幡沼掘割に沿った村落で、海岸地方から六方野(千葉野、小金ヶ原)を経て、県北部および常陸方面に出る脇街道でもあったから、川を渡したところとの意味ではないかと考える。
文献にあらわれてくる村名をとりあげてみると、宝永九年(正徳二年)(一七一二)、享保十五年(一七三〇)、宝暦十一年(一七六一)の文献には天戸村と書かれている。
安永二年(一七七三)、天明二年(一七八二)の印幡沼掘割に関する文書、文化十年(一八一三)の六方野一件済口証文などにも天戸村とある。宝永以来、天戸村の村名は変らないようだ。