旧犢橋(こてはし)村の一部落であって、千葉市の北部を袖ヶ浦に注ぐ花見川、すなわち印幡沼掘割に沿った部落である。『千葉郡誌』(1)によれば、「昔時三枝の郷六方野庄と称せられ、小金ヶ原の一部なりしが、今を去る凡そ三百年前慶長の頃来りて兹に土着せるものあり」とあるが、この町の花嶋山天福寺は、和銅二己酉年(七〇九)四月、行基菩薩が東国巡遊の折に聖観世音像を彫刻して、一宇を建立して祀られたのが始めだと伝えている。また、寺に保存されている棟札をみると、慶長十七年(一六一二)正月十八日奉再興下総国千葉庄花嶋観音菩薩一宇のと、慶安五壬辰年(一六五二)霜月三日、下総国葛飾郡千葉庄花嶋村観音堂のがある。この二枚の棟札からみると、けっして慶長年間の開村ではなくて、もっと古く和銅年代にすでに多少の部落があったものと思われる。
寛文十一辛亥年(一六七一)四月十八日の「下総国千葉庄花嶋観音開帳並再興勧進帳」をみると、「此の嶋、龍界湧出の嶋、彼花は花圀上生の花なり」また「周囲に水をめぐらし台上に観世音を祀りて山号を花嶋山と名付けられ」それが町名に用いられたと伝承されている。
この町名の推移を資料からみると、寺に所蔵されている棟札のうち、村名と年代の書き入れてあるものは、いずれも花嶋町となっている。
○慶長十七年(一六一二)正月十八日 奉再興下総国千葉庄花島観音菩薩一宇
○慶安五壬辰年(一六五二)霜月三日 下総国葛飾郡千葉庄花島村観音堂
○寛文十一辛亥年(一六七一)四月十八日 下総国千葉庄花島観音開帳並再興勧進帳
○延宝二甲寅年(一六七四)上夏吉日 奉再興下総国千葉庄花島観音菩薩一宇
○文政七甲申年(一八二四)十月十八日 本堂入仏開眼供養花島村谷雲山天福寺・本願花島村天福寺住法印俊盈
その他、天保十四卯年(一八四三)六月「犢橋村差出明細帳」(2)、享保十五戍年(一七三〇)八月下総国千葉郡小金野方の内戸柏新田之内「花嶋村検地帳」(3)にも花嶋村とあって、町名は変っていない。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 「犢橋村差出明細帳」 原本粉失、天保十四年、写本、院内町和田茂右衛門蔵。
- 3 「花嶋村検地帳」享保十五年、犢槁町小島家蔵。