旧犢橋村の一部落である。『千葉郡誌』(1)に、「三枝の郷六方野庄と称せられ小金ヶ原の一部なりしが、今を去る凡そ三百年前慶長の頃来りて、兹に土着せるものあり」と花島町と同じ引用がこの犢橋町にもあてはまる。この町の開村は慶長年代であろうか。宝暦十一年(一七六一)五月の文書では、保田越前守組与力、小栗又兵衛、御料所、以上の三家が支配する相給地であった。また、天保十四年(一八四三)六月の「犢橋村差出明細帳」には、篠田藤四郎、小栗左近、吉田収庵、鳥井甲斐守組与力給与地とあるから、四家の相給地であった。
町名に関係のある資料にはつぎのものがある。
○元禄十五年(一七〇二) 佐倉藩領知郷村辻高帳 犢橋村
○文化十癸酉年(一八一三)七月 六方野一件済口証文写 犢橋
○文政三庚辰年(一八二〇)二月 犢橋三社神社石鳥居銘 犢橋村氏子中
○天保十四卯年(一八四三)六月 犢橋村差出明細帳 犢橋村
○天保十五年(一八四四) 御領分御林新田高改・刈田子町高梨家蔵 〃
○天保十五辰年(一八四四)七月 当新田万控帳 犢橋宿
○嘉永元戊申年(一八四八)八月 乍恐以書付奉願上候(助郷歎願の事) 犢橋村
○安政五年(一八五八)十二月 以書付御窺申上候・院内町和田家蔵 〃
○安政七年(一八六〇)三月 東寺山当申年宗門人別改帳・東寺山町豊田孫兵衛家蔵 〃
○明治二己年(一八六九)六月 犢橋村差出明細帳・園生町吉田家蔵 〃
○明治二己年(一八六九)七月 議定書、六方野秣場入会之件・宇那谷町区有文書 〃
以上のように町名には変りがない。しかしながら町名の起源については、何ら資料がない。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。