「今より凡二百五十年前元和の頃、武州人々の移住地にして、大日山の東方七八丁の所に在り、爾来、大いに発達し代官の所領となり、幕末の頃には、戸数四十に及び総石高百三十石と称せり、名主小島藤兵衛」と『千葉郡誌』(1)に出ている。
天保十五甲辰年(一八四四)七月の「新田萬控帳」には、高百六十石余旗本高木清左衛門の知行所小深新田と記されている。文化十癸酉年(一八一三)七月、「六方野一件済口証文写」にも小深新田とある。開村当時から小深新田に変りなく、明治二十一年頃から小深村となった。小深については、柳田国男の『地名の研究』(2)に「水づいた低地をフケと云う。関東方面でも足の入るような泥田を、今も一般にフケ田、深田と云う」とある。それが谷地であるため、小さな「ふけ田」が小ふけとなって小深の字があてられ、その新田場なので小深新田と呼ばれた。
いま一つ、千葉付近で前記のような泥田を深田(ふかだ)または大深(おおふけ)と呼んでいる。高品町、院内町には大深という小字が残っている。この深田の深が訛って、「ふけ」となったものと思われる。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『地名の研究』 柳田国男著、昭和二十二年、実業之日本社刊。