慶長十九年(一六一四)十二月、中山勘解由が大阪夏の陣の軍功によって、高品村、宮野木村を拝領したことが、宝永八年(一七一一)の「高品村卯年改山高水帳」の末尾に記してある。これと同じ記事が「寛政重修諸家譜」にも載っている。また『千葉郡誌』(1)にも、宮野木村が中山勘解由と楠弥十郎の相給地であることを記している。
『房総叢書』(2)のうち、宝暦十一年(一七六一)五月「下総国各村級分」宮野木の項をみると、ここでも相給地である。
また、明和三戍年(一七六六)の中山家の「御物成元帳」に宮野木村とある。さらに降って、文久二戍年(一八六二)の北原野関係の下知書写しには「拾五年前宮野木村隣助より開発願出候に付」とある。十五年前ということは、嘉永二酉年(一八四九)にあたり、その頃も宮野木村と呼ばれていたことがわかる。
以上、宮野木の名は変らずつづいた。
○明和三年(一七六六) 中山家御物成元帳 東寺山町豊田長右衛門家蔵 宮野木村
○文久三年(一八六三) 北原野下知書 高品町山本家蔵 〃
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『房総叢書』『改訂房総叢書』房総叢書刊行会、昭和三十四年。