この町の名は、薬園に奉仕した園部の集団住居地であったから名付けられた地名ではないかと思われる。しかし、また別な考え方をすれば、園生を竹の園生と連想して、なにか都、あるいは朝廷に関係がある地名ではないかと考えている人々もある。詳細は明かでない。
この町の小字・長者に貝塚があり、そこから住居跡が発見されている。これは縄文時代の人々の住居なので、そのように古い時代から部落が構成されていた。また、長者地域は、一名、長者山、千葉山あるいは金蔵院山と呼ばれている松山があって、その地域が千葉家代々の菩提寺跡と伝えられている。ともかく、由緒のある土地柄なのである。
町名の移り変りの資料にはつぎのものがあげられる。
○寛文十戍年(一六七〇)六月 訴訟文書「穴川野地」(1)・院内町和田家蔵 園生村
○元禄二己年(一六八九)十二月 〃 〃 〃
○宝暦十一年(一七六一) 下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収 〃
○文化十酉年(一八一三)七月 六方野一件済口証文・院内町和田家蔵 〃
○明治二己年(一八六九)七月 六方野組合十一ヶ村議定書・宇那谷町区有文書 〃
以上のように寛文十年以降、園生村の名は変っていない。
- 註1 「穴川野地」妙見寺門前、名主定右衛門が穴川野の訴訟状など出入事件文書を集成して「穴川野地」と表書した。書写したのは明治五申年(一八七二)、院内町和田茂右衛門蔵。