この町は、萩の花の名所であったので「萩の台」と呼んでいたという伝承がある。それから取って萩台村と名付けたとも伝えられている。しかし、このことに関係のありそうな資料はみあたらない。
つぎに町名の推移を追ってみる。
○慶長九年(一六〇四)十月 「寛政重修諸家譜」(1) 中山勘解由、萩台村を領す
○寛文九酉年(一六六九) 訴訟状「穴川野地」(2)・院内町和田家蔵 萩の台村
○元禄年間 『千葉市誌』(3)所収 中山氏、萩台村を領す
○延享四卯年(一七四七)二月 瀬又村大網家古文書・大網家蔵 萩台村
○宝暦十一年(一七六一) 「日記帳」・東寺山町豊田孫兵衛家蔵 〃
○明和三戍年(一七六六) 中山家御物成元帳・東寺山町豊田長右衛門家蔵 〃
○嘉永元申年(一八四八)八月 下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』(4)所収 〃
以上のように、萩台村と名付けられているのは慶長以後変わりないが、ただ一つ、明治五年の写本である「穴川野地」の中からとりあげた寛文九年の訴訟状に「萩の台村」となっていて、萩の名所の伝承にかかわりあいがみとめられる。
- 註1 「寛政重修諸家譜」 千葉県立中央図書館蔵。
- 2 「穴川野地」 妙見寺門前もと名主定右衝門書写、明治五年。
- 3 『千葉市誌』 千葉市史編纂委員会編、昭和二十八年。
- 4 『改訂房総叢書』 房総叢書刊行会、昭和三十四年。