この町の旧名を西寺山村といって、昭和十三年(一九三八)九月、町名改正のときに改められた。
古くは三枝郷に含まれて、東寺山村を含めて寺山と呼んでいたようだが、いつの頃からか分村して、東寺山村、西寺山村となっている。西寺山村が記録されている資料をあさってみると、つぎのとおりである。
○延享二年(一七四五) 出入済口絵図・東寺山町豊田長右衛門家蔵 西寺山村
○天明四年(一七八四)十二月 売渡申田畑証文之事・東寺山町豊田孫兵衛家蔵 〃
○天明七年(一七八七)十二月 〃 〃 〃
○天明八申年(一七八八)三月 東寺山村馬毛付帳・ 〃 〃
○寛政元年(一七八九)九月 売渡申田畑証文之事・ 〃 〃
○寛政十一年(一七九九)六月 〃 〃 〃
○享和元年(一八〇一)四月 〃 〃 〃
○文化十四年(一八一七)十二月 〃 〃 〃
○文政三年(一八二〇)五月 〃 〃 〃
○万延元申年(一八六〇) 東寺山村区有文書・院内町和田家蔵 〃
○慶応四年(一八六八) 東寺山村宗門改帳・院内町和田家蔵 西寺山村
以上の通りであるが、このほかに安永九年(一七八〇)九月二十四日、妙見寺三十二世として入山した宥怡法印(ゆういほういん)の『千葉伝考記』(1)「妙見寺住僧小伝」によると、「妙見寺の氏子、東寺山中島氏の出なり」とある。これから考えると、寺山とは妙見寺の寺山であったために名付けられたというような関係があるのかも知れない。
古くは千葉家の領有するところだったこの村は、千葉家の一族である増田家に関係があった。増田家は、千葉勝胤の子秀胤が増田を名乗り、増田九郎秀胤と称したのにはじまり、大永二年(一五二二)八月、京都に出て叡山の座主・常覚の推挙により将軍義晴に仕えて左衛門尉に任ぜられ、江州長浜で五百貫の地を賜わったのであるが、永禄八年(一五六五)五月十九日、将軍義輝が三好、松永の徒に殺されたので、所領を離れ、浪人となり、元亀二年(一五七一)七月九日、七十一才で死亡している。その子、増田九郎胤弥は、生国、下総千葉野の二十五里(ちゅうへいじ――源町の小字)に引籠り、その子、増田太郎胤寿の代になってから帰農して、この村に永住した。この家のことを「ちゅうへいじ」様と呼んでいたと伝えられており、嫡流の方は佐倉市に住んでられると聞いている。
以上の資料をまとめてみると、元亀二年、父の死後千葉野の二十五里へ引籠りとあるから、その頃は、この町あたりは千葉野と呼ばれ、延享二年より前に寺山と呼ばれた時代があったと想像される。その後、分村して西寺山村となって安永、天明、万延、慶応と、いずれも西寺山であった。これが昭和十三年まで続いて、同年の町名改正の際に源町となった。千葉を流れる葭川(よしかわ)の水源が、この町の弁嶽清水に発しているところから、千葉の水元だから源町と名付けたといわれている。
- 註1 『千葉伝考記』著者不詳、享保元文年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。