この町の町名に関して清宮秀堅の『下総旧事考』(1)には、下総の国府、すなわち国造の所在地がこの殿台の地ではないかとしている。そうして町名も、それに関連があるものと考えているようだ。この話について、いろいろ調べてみると、古老の伝承として残っている話に、「近隣の東寺山村、西寺山村、萩台村を含めて、殿台村と称し、現在の殿台町が中心で役所があった」と話している。
しかしながら、この役所は国造時代の古い役所跡というのではなくて、時代感覚に多少のずれがあって、老人の聞き伝えた役所とは、戸長役場の役所ではないかと考えられる点が多い。
さて、古くはこの町も、千葉家の治下であったと思われるが、徳川氏の治下になってからは、初期は不明だが、元禄十五年(一七〇二)十一月には旗本石尾織部の知行所となって、明治まで石尾家で世襲されている。
町名の推移をみるとつぎの通りである。
○天明四辰年(一七八四)十二月 売渡申田畑証文之事・東寺山町豊田孫兵衛家蔵 殿台村
○天明七未年(一七八七)十二月 〃 〃 〃
○寛政元酉年(一七八九)九月 〃 〃 〃
○寛政十一未年(一七九九)六月 売渡申田畑証文之事・東寺山町豊田孫兵衛家蔵 殿台村
○享和元酉年(一八〇一)四月 〃 〃 〃
○文化十四丑年(一八一七)十二月 〃 〃 〃
○文政三辰年(一八二〇)五月 〃 〃 〃
○嘉永元申年(一八四八)八月 「日記帳」 〃 〃
以上のように元禄以後の村名には変わりがない。
- 註1 『下総旧事考』 清宮秀堅著、弘化二年(一八四五)刊行、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。