古くは西寺山町(源町)を含めて寺山と総称されていたようだ。いつ東寺山村、西寺山村と分村したのか詳かでない。
元禄十二乙卯年(一六九九)四月十二日、「田方卯年検地水帳」(1)には、東寺山村が明記されている。
また、元文六辛酉年(一七四一)二月の「円蔵院祠堂金改帳」(2)にも東寺山村とあって、さらに降って延享二年(一七四五)西寺山村薬王寺と東寺山村との「出入済口絵図」(3)にも、東寺山村と書き込んである。
安永九庚子年(一七八〇)九月二十四日、妙見寺三十二世としてこの日入山した宥怡(ゆうい)法印の『千葉伝考記』(4)の妙見寺僧小伝によれば、「妙見寺の氏子東寺山中島氏の出なり」とある。これで判断すると、寺山の地名は妙見寺の寺山であったために付けられたというような、なにか、千葉の妙見寺に関係をもつものではないかと考えられる。
いま手持ちの資料で判断すると、元禄以前には東寺山村、西寺山村と分村し、当村は妙見寺の氏子であったものと思われる。また寛永九年(一六三二)、中山勘解由昭守が付近の村々、高品村、宮ノ木村、作草部村、西寺山村などと共に東寺山村も知行していたと思われるが、村名が出ていない。
- 註1 「田方卯年検地水帳」 東寺山町豊田孫兵衛家文書。
- 2 「円蔵院祠堂金改帳」 〃
- 3 「出入済口絵図」 東寺山町豊田長右衛門家文書。
- 4 『千葉伝考記』 著者不詳、享保元文年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。