この町では、天明四甲辰年(一七八四)正月に道祖神社が村人によって祀られ、すでに五人組と称する家々の祖先によって開拓されている。
五人組の一軒、吉野五右衛門家の過去帳でみると、初代五右衛門は天明三卯年(一七八三)六月十四日に死亡している。宮野木町の能勢家の人、吉右衛門が千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、妙見寺、大日寺、来迎寺の入会地になっていた千葉野の開墾を願出て、文政十一年(一八二八)に開発された新開地である。穴川の町名の縁起については、三つの伝承が残されている。
第一は、穴川は穴穂部の所在地で部民の集落の跡であるために、穴穂部が穴川に変ったとする説。
第二は、佐倉藩が洋風兵法を採用して、千葉野でざんごう掘りを練習し、そのざんごうに雨水が溜って流れだしたので、穴から流れ出た、穴の川ができたそれが穴川と訛ったとする説。
第三は、地下水が自然に湧出して流れとなり、黒砂、谷津に流れた小溝があったので、穴川とする説。
第一の説はこの土地が穴穂部の遺地だとする資料も文献、伝承もないので、ただ穴川にたいして穴穂部を宛ててみたにすぎない。
第二は佐倉藩が洋学を取入れたのは、天保十三年(一八四二)に堀田正睦の侍医鏑木仙安が蘭学を講じたのが始まりであるから、洋風兵法を取入れたのは、天保十三年以後ということになる。これより百年前に、寛保二年から「穴川野」が使用されているので、これもこじつけというべきである。だが、いま一歩ゆずって、ざんごう掘りを実施したとしても、なぜこんな遠隔地を選んだか、もし秘密の保持が目的であるなら、旗本領に近接しているこの地をなぜ選んだのか不合理な点が多く残される。
第三は他の土地にもあることで、この伝承が真実性があるように考えられる。しかし、伝承としては残っていない。『全国方言辞典』(1)では、「あな」について、神奈川県では畦道のことを「あな」と呼ぶとある。また千葉県山武郡では、畑の周囲を「あな」と呼んでおり、千葉近傍でも畑の周囲の掘上ったところを「あな」と呼んでいるから、畑の周囲の掘上げた所に清水が湧きだして、流れでて、「あな」から流れ出た、それが「あな」川と呼ばれ、いつの日か「穴の川」の穴川につまったとは考えられないものだろうか。
妙見寺に伝わる「穴川野地」(2)と表題した入会野地関係の訴訟状を集録した写本がある。これは明治五年(一八七二)四月に、旧妙見寺領名主、和田定右衛門が筆写したものである。この「穴川野地」によると、つぎのように穴川の記録がある。
○寛文九年(一六六九)六月 「穴川野地」・訴状 (千葉町寒川村、登戸村、黒砂村、妙見寺、来迎寺入会野地)
○寛文九年(一六六九)極月 〃 ・訴状 (千葉町寒川村、登戸村、黒砂村、妙見寺、来迎寺入会野地)
○享保九年(一七二四)七月 〃 ・請書 千葉村野地新田
○享保十一年(一七二六)七月 〃 ・差上申一札之事 千葉村野
○享保十五年(一七三〇)五月 〃 ・訴状 四ヶ村入会野
○享保二十年(一七三五)三月 〃 ・訴状 〃
○寛保二年(一七四二)五月 〃 ・乍恐以書付奉願上候 四ヶ村入会字穴川野地
○寛保二年(一七四二)七月 〃 ・取替証文 〃
○安永二年(一七七三)九月 〃 ・書付 〃
○天保三年(一八三二)九月 〃 ・書状 〃
こうしてみると、千葉野と云われていたのが、寛保二年以後になると穴川野地と呼ぶようになっており、穴川の地名が寛保のころから呼びならわされていたとみるべきであろう。
- 註1 『全国方言辞典』 東条操編、昭和三十九年、東京堂。
- 2 「穴川野地」 編者不詳、寛文~天保年間の訴訟書状を編纂、和田定右衛門書写、明治五年、院内町和田家蔵。