第二次大戦前この町は、兵器補給廠のあった所で、軍靴の音も賑やかであった。そのことから轟町と名付けられたということで、戦後にできた町名で、古くは、千葉野、後に穴川野と呼ばれた入会地にできた町である。
現在、町内には、大日寺と来迎寺とが、ほとんど向い合せに所在している。これは、昭和二十年(一九四五)の戦災のため、ともに全山焼失し、戦後、大日寺は通町から、来迎寺は道場北町から移転してきたものである。
大日寺の境内には、もと園生町の「千葉山」にあって、千葉常兼以下十六代の墓だといい伝えられている五輪塔が移されている。また、来迎寺の境内にも、千葉氏胤以下七基の追善供養碑(五輪塔)が安置されている。ともに千葉氏に関わる石造物として、千葉市重要文化財に指定されている。