高品町(たかしなちょう)

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 高品町は、古くは高篠村と呼ばれた時代があったようだ。『千学集』(1)という妙見寺(千葉神社)の事を記録した本の木材切出しの項に、「たかしの、さくさべの山にて伐る」と、また、「永正二乙卯年(一五〇五)十一月十五日、千葉昌胤御元服につき高篠村より妙見宮へ成らせらる」とあり、なおこのほか本文中に五カ所も高篠村と記載されている。この『千学集』の末尾には、「天文廿三甲寅年(一五五四)十一月本庄伊豆守胤村」と書き入れてある。

 高品町の等覚寺の御本尊、薬師如来の胎内に墨書されている造像銘には、「奉造立薬師如来元亀二辛未年(一五七一)七月二日大檀那安藤勘解由、高篠村等覚寺権大僧都宥朝」とあって、古くは高篠村と呼ばれた時代のあったことがわかる。


挿図27 等覚寺の薬師如来像
高品町

 では、何時のころ高品村に変ったかというと、「宝永八辛卯年(一七一一)高品村卯年改山高水帳」の末尾余白に「往昔は、元和元改、元禄改、慶長十九甲寅年(一六一四)十二月廿六日、大阪夏御陣にて、千葉郡高品村、宮ノ木村拝領」とある。

 また、東金御成街道築造の際における「村々割合書上帳」の断片が、金親村の某家から発見された。また、「従舟橋東金新道作帳」が園生町の吉田家から発見された。それによると、五百十石、九町、原高品村とあり、年号は慶長十九年(一六一四)と誌されている。

 等覚寺の梵鐘の「銘文写」(2)によると、「寛文十二癸丑年(一六七二)二月千葉庄高品村」とあって、以上のように少ない資料であるから正確なものとはなりかねるが、慶長ころから高品村に変ってきたものと推定できる。

 つぎに町名の高品、高篠の起源は、村が千葉野のかたすみで、一面の篠原であったと思われるので、それから高篠村と名付けられたのであろう。「たかしの」が「たかしな」に変って「品」が宛てられて高品村となったのではあるまいか。