千葉野のつづきなので「原村」と名付けられたか、原家が居住していたから、領主の「原」を村名に付けたものか判然としない。
『千葉実録千集記』(1)に、「原豊後守光胤(寛正七年(一四六六)二月七日死亡)は、原胤親の子息にして、下総国原村に住居す」とある。寛正七年以前に原村に住居したということは、原村が古くからできていたことを物語っている。
つぎに、高品町の項で取上げた東金御成街道築造のときの記録、「村々割合帳」によると、原高品村とあって、両村で僅か九丁を割当られたことになっている。ということは、両村とも小さな村であったということが考えられる。
- 註1 『千葉実録千集記』 著者不詳、徳川中期の作、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。