この町は、旧川野辺新田、鎌池、加曽利新田の一部と小倉町の一部を併わせて昭和十三年(一九三八)の町名改正のときに若松町と名付けられた。
古くは糟〓郷に属している。旧川野辺新田や鎌池は、六方野秣場の内に含まれて、寛政年中から天保十年までは御料所であって、代官竹垣三左衛門の支配だった。
つづいて、天保十五年(一八四四)からは左記のように知行所となっている。
○天保十五年(一八四四)七月 高木清左衛門知行所
○慶応二年(一八六六)正月 福田所左衛門知行所
○慶応三年(一八六七)三月 小笠原甫三郎知行所
高田与清の『相馬日記』(1)(文化年間の著書)によれば、「千葉郡の荒野に出ず、この野は横に二十里ばかり、たてには限り知れぬ広野なり、ただ尾花の色なり、白妙の浪かと疑われたる」とある。このような荒野を、文化十年(一八一三)十月、千葉郡辺田村、吉郎右衛門が請負人となって、先の願人内寺村彦右衛門から開墾権を三百両で買収、開発に成功している。天保十五辰年(一八四四)検地を請求して村高三百七石三斗七升と検地された。
そのほか資料にはつぎのものがある。
○文化十酉年(一八一三)七月 六方野一件済口証文 川野辺新田
○天保十五辰年(一八四四)七月 当新田萬控帳 川野辺新田
- 註1 『相馬日記』 高田興清著、文化十四年、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。