この町は、昭和十三年(一九三八)の町名改正のとき旧名の辺田町を捨てて、旧都村の「都」をとって「都町」と改めた。
『和名抄記』(1)では、糟〓郷に属していて、のち千葉郷となっている。町内の遺跡出土品から考えても、古くから村落が営まれていたものと推定できる。
『千学集』(2)の記事から推定すると、辺田は侍屋敷であったと思われる。妙見寺(現千葉神社)住持第十一世覚実法印のとき、長享元年(一四八七)から永正十年(一五一三)の間に起こったつぎのような記事がある。
「仁戸名牛尾三郎左衛門は、神領(妙見寺領)辺田の百姓三郎五郎といへる者を『わが被官を切れば』と、辺田へ押込み討ちを致せし所、覚実法印の仰せには、『被官たりとも神領へ押込み討ちは、在所の沙汰叶ふまじ』とて、御輿を御門まで出されける」とあって、この年代に辺田の村名があったことがわかる。
この辺田が現在の都町だとするには、改正前は辺田町であったことと、辺田と妙見寺との関係について、明治初期まで、千葉の妙見の祭礼には都町でも幟を立てて祭をしたと伝えられており、また貝塚町、都町の人々は、妙見社の御輿に奉仕したといわれている。この町に妙見寺領があったことも考えられるので、『千学集』の辺田が都町の旧名であると判断してもよいと思う。
町名の推移についてみると、
○元禄十五壬午年(一七〇二) 佐倉領村高改帳 辺田村
○文化十癸酉年(一八一三)七月 六方野一件済口証文・院内町和田家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七) 五穀成就御祈禱控・金親町金光院蔵 〃
○天保十五年(一八四四) 御領分御林新田改帳・川戸町鈴木家蔵 〃
○弘化四丁未年(一八四七) 差村高調書上帳 〃
昭和十三年、都町とかわるまで、古くから辺田村と呼ばれていた。辺田の名の起りは、人家が台地の下、耕地に添って細長く続き、田のそば、田のほとり、それが辺田となったのではないかと思われる。要するに地形から名付けられたと考える。
- 註1 『和名抄記』(倭名類聚抄)源順撰、延長年間、『改訂房総叢書』第五輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 2 『千学集』 著者不詳、天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。