古くは糟〓郷に属し、その郷名をそのまま村名にしていたが、後に「加曽利」の字を宛てて、今日の加曽利町となった。
また、治承のころ、千葉常胤の孫、成胤はこの町の台地に居館を構えて、地名をとって加曽利冠者小太郎成胤と称した。
この町の高伝寺、円蔵寺の両寺は、長承二年(一一三三)大宮町の栄福寺の末寺二十八カ寺の一寺として導照僧正の創建された真言宗の寺であるが、後に円蔵寺は天台宗に改宗、高伝寺は大永二年(一五二二)日蓮宗に改宗、改宗前は寺号を光伝寺と云っていた。このように古い歴史をもった集落である。
この町名を資料から年代順に採録すると次のようになる。
○長承二癸丑年(一一三三)九月 大宮町栄福寺文書、光伝寺、円蔵寺加曽利村に創建 加曽利村
○元禄十五壬午年(一七〇二)三月 佐倉領村高改帳 〃
○元文六酉年(一七四一)二月 金親村新田畑改書上帳・金親町松本家蔵 〃
○天明七丁未年(一七八七)十月 大厳寺鐘楼起立勧進序・大厳寺町大厳寺蔵 〃
○文政七申年(一八二四) 為取替申証文之事(用水出入の件) 加曽利村
○天保五甲午年(一八三四)八月 小倉村名寄帳「惣町歩覚」・小倉町平川家蔵 〃
○天保十年(一八三九)三月 六方野一件済口証文 〃
○天保十五年(一八四四) 御領分御林新田高改(堀田領) 〃
○弘化四年(一八四七)四月 堀田領村高調 〃
以上の諸文書に加曽利村とあって、古くから町名の変更は認められない。