古くは矢作部(やはぎべ)の集落であったと考えられている。土地の老人の話を綜合すると、昔から矢を造っていた土地、矢をはいだ土地だと伝承している。また、「矢の坂とて矢竹の叢生せる場所あり」とも云った。
このように、この町の名は、矢をはいだ土地が「やはぎ」とつまり、それに矢作の字をあてて「やはぎ」と読ませ、それが今日の町名として残ったものと思われる。
資料によって町名の推移をみると、
○元和元年(一六一五) 『千葉郡誌』(1)に遠山忠太郎矢作村を領知 矢作村
○元禄十五年(一七〇二) 佐倉藩領知郷村高辻帳 〃
○延享三年(一七四六) 堀田家差上げの「書上帳」 〃
○宝暦十二年(一七六二)三月 河戸村午年宗門御改帳・川戸町鈴木家蔵 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 小金原御鹿狩勢子人足割の件・日記・刈田子町高梨家蔵 千葉荘矢作村
○天保十五年(一八四四) 御領分田畑高反歩取調控帳 〃
○弘化四未年(一八四七)四月 差村取調書上帳 矢作村
以上のほかに、千手院松林寺の過去帳に「下総国千葉郡矢作に創建」とある。この寺は宥山が寛永年中に創建したと伝えられている。矢作は開村以来、その名に変りがなかったようである。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年