この町は、千葉之庄池田郷に属し、仁戸名と書いて土地の老人たちは「ねえな」と呼んでいる。千葉寺町の吉川和市氏によると、〝東北に、一戸(いちのへ)とか、八戸(はちのへ)という地名があります。戸は音(コ)、訓(ト)、中国音(hu)、アイヌ音(He)、――戸という字の意味するものをアイヌではheと云った――とにかく仁戸名は、「にへな Nhena」、「ねーな」が正しい読方ではないだろうか。もっとも、「ねえな」に近い音があって、仁戸名という字をあてたのかも知れません〟。
以上の手紙をいただき、正しい読方は「にへな」と訂正した。これまで用いた「ねえな」は村人の言葉を、ただ私に響いたままを仮名に書いてみた。
千葉市内の町名のなかで戸の字を拾ってみると、登戸(のぶと)、横戸(よこど)、川戸(かわど)、天戸(あまど)、仁戸名(にとな・ねえな)、大木戸(おおきど)と六例が数えられる。こうしてそれぞれの読み方をみてゆくと、あるいは千葉付近に特有な方言的な読み方であるかとも考えられる。
この仁戸名村について、『千学集』(1)という妙見寺のことを書いた本から関係のある記事を取りあげるみる。
「仁戸名の長、岡田善阿弥と申す者の妹聟、牛尾美濃守入道、此の地に住す(永正十年(一五一三)十二月十五日大日寺にて寂す)、妙見寺第十一代の住持覚実法印の時、仁戸名の牛尾三郎左衛門は、神領の辺田の百姓、三郎五郎といへる者を我が被官切ればとて辺田へ押込み討は在所の沙汰叶ふまじとて、御輿を御門までいだされける。牛尾美濃守大庭まで参られて、様々申され、三郎左衛門は山林にて切腹して落付きぬ。
又仁戸名三郎左衛門の子、牛尾兵部少輔は、仁戸名に柵の内と云える九貫五百の神領を押領せられし時(現在柵の内の小字なし)、妙見寺第十二代住持範覚法印(天文十二年(一五四三)一月二十五日佐倉城にて寂せられし方)御鉾を立てられしに、小弓へ御馬を出され、御とりなしなされし時、矢部少輔の子、宇那谷の御弟子にて稚子にてありしを範覚の御弟子に上げられるべき約束にて落付きぬ。かかる事のありし故か仁戸名の苗字も絶へたり。」
今から四百五十年から四百二十年ほど前に仁戸名を姓とする者が居住しており、地名があって姓としたか、その姓から地名が名付けられたか詳らかでないが、その時代に村名が仁戸名であったことは明らかであると考えられる。
町名の推移を考える資料としては、次の通りである。
○元禄十五午年(一七〇二)三月 佐倉藩領知郷村高辻帳 仁戸名村
○享保十一年(一七二六) 小倉町平川家文書 〃
○元文三戊午年(一七三八)七月 四作野絵図面(土手境出入の件)・大宮町林家蔵 〃
○宝暦十二年午(一七六二)三月 河戸村午年宗門御改帳・川戸町鈴木家蔵 〃
○安永三年(一七七四)二月 庚申塔 〃
○安永六年(一七七七) 諸願書控 〃
○天明元年(一七八一)霜月 下総国千葉郡坂尾村差出帳・林家蔵 〃
○文化六年(一八〇九) 坂尾志み田堤絵図・林家蔵 仁戸名村
○天保十五年(一八四四) 御領分田畑高反歩取調控帳 千葉庄仁戸名村
○弘化四未年(一八四七) 差村取調書上帳 仁戸名村
○明治四辛未年(一八七一)三月 川戸村未年別宗門五人組御改帳・鈴木家蔵 〃
○明治九年(一八七六)七月 坂尾村高帳・林家蔵 〃
永正十年以来、仁戸名の村名には変わりがない。
- 註1 『千学集』 著者不詳、天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。