当町は、栄福寺の住持・横山乗歓師が、代々の住持の口述を書き集めた『郷土研究資料』(1)によると、「千葉家の五代常長が、源頼義の幕下に属して、安倍の貞任、宗任を追討の時、常長の旗本に馳せ集まる野党の内に、坂尾五郎治と云う者あり。戦功により、下総国池田郷に領地を賜はりましたので、五郎治は、長承元年(一一三二)正月二十二日、家来をして、それぞれ開墾帰農せしめて、上坂尾、下坂尾、坊谷津、鼻輪と四部落に分けて、坂尾五郎治の第一子新五郎を此の地に住まはす」とある。
さて上坂尾・下坂尾は、領主の姓をとって名付けられ、村人は、坂尾を「さんご」と呼んでいる。坊谷津は「ぼーやつ」とよませ、「坂尾五郎治の屋敷前に土手堤あり、又谷津あれば坊谷津と名付く、即ち坊は防と同意義にして堤の義なり」と前述の書にあって、坊谷津は早くから坂尾に併合されて、小字名として残っている。
長峰は、前述の書に「大治五年(一一三〇)九月、坂尾五郎治妙見尊を鼻輪の地に祀つる」とある。また、「治承年間、千葉常胤時代の人に、長峰田所三郎と云う人、坂尾五郎治の末孫を嫁取って、鼻輪の地に居住して、附近を開拓して青柳と名付けた」とある。のちに、長峰の姓を取って、長峰村と村名鼻輪が変更された。
長峰田所三郎胤行は、『千葉実録』(2)、『千学集』(3)および栄福寺所蔵「妙見縁起絵巻」(4)によると千葉常胤が源頼朝を上総にむかえた時、孫の成胤と千葉城に残り、千田判官平親政を迎え討った時の郎党の一人で、治承四年(一一八〇)頃の人である。
鼻輪(はなわ)は、古語で「突出した高台」という意味、「わ」は接尾語である。『日本地名小辞典』(5)によれば、「この地名、関東地方に殊に多く、河岸段丘や一段高い土地をさして、塙、花輪、花和と名付く」とある。長峰村は、その地形から、鼻輪と名付けられ、それが後世、花輪、花和と転化し、享保の頃より長峰と変ってきたと推定される。
町名の移り変りを資料からみると、
○大治五年(一一三〇)九月 坂尾五郎治妙見尊を鼻輪に祀る・大宮町栄福寺蔵「郷土研究資料」
○長承元年(一一三二) 坂尾五郎治此の地に封ぜられる・大宮町栄福寺蔵「郷土研究資料」
○天文十九年(一五五〇) 栄福寺妙見絵巻・本庄伊豆守坂尾村栄福寺に寄進・栄福寺蔵 坂尾村
○延宝五己年(一六七七)五月 坂尾村検地帳・大宮町林家蔵 〃
○延宝六戊午年(一六七八)五月 妙見縁起絵巻奥書に下総国坂尾村栄福寺・栄福寺蔵 〃
○元禄四年(一六九一)六月 中峠余野出入訴訟文 〃
○元禄七年(一六九四)三月 坊谷津泉福寺に関する証文 坊谷津
○享保十一年(一七二六) 下総国千葉郡坂尾村差出帳・大宮町林家蔵 坂尾村、長峰村(花和分青柳分)
○宝暦十二午年(一七六二)三月 川戸村午年宗門御改帳・川戸町鈴木家蔵 坂尾村栄福寺
○天明七丁未年(一七八七)十月 大厳寺鐘楼起立勧進帳・大厳寺町大厳寺蔵 下総青柳村、上坂尾村、長峰村
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件) 長峰村、坂尾村
○文政二己卯年(一八一九)九月 日吉権現棟札 坂尾村
○天保十五年(一八四四) 御領分御林新田高改 千葉庄坂尾村、同長峰村
○弘化四未年(一八四七)四月 差村取調書上帳 坂尾村、長峰村
○慶応三卯年(一八六七)七月 乍恐以書付御訴訟奉申上候(中峠野秣場入会出入の件)・林家蔵 長峰村、坂尾村
○慶応四辰年(一八六八)三月 字中峠野出入済口証文・林家蔵 長峰村、坂尾村
○明治三年(一八七〇) 神社除地書上帳・林家蔵 長峰村
○明治四辛未年(一八七一) 中峠野議定書・林家蔵 表書に坂尾村、長峰村
文中に上坂尾、下坂尾、長峰村
坂尾村と長峰村が合併して「大宮町」ができた。
- 註1 『郷土研究資料』 横山乗歓口演、鈴木乗繁筆記、昭和九年、大宮町栄福寺蔵。
- 2 『千葉実録』 著者不詳、江戸中期、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 3 『千学集』 著者不詳、天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年。
- 4 『千葉妙見大縁起絵巻 上・下』 片山三清守長筆、室町時代、大宮町栄福寺蔵。
- 5 『日本地名小辞典』 鏡味完二著、昭和三十九年、角川書店。