町名については、地形から取って名付けられたと考えられる。
当町は、もと平山郷に属し、元禄年中に平山村から分郷して独立したと伝えられている。しかしながら、野田村の成立には、元和五年(一六一九)、平山村・遍田村から分村しているところから考えると、元禄年中の分村ということは不合理となる。
町の人びとが、お手持ちの古文書を公開して下さると、この解明も早いのだが、なかなか思うようにならない。
そこで、ほかの町村の資料から、遍田村関係のものを取り集めてみると、次のとおりである。
○元禄十一寅年(一六九八)二月 差上申一札之事・(分村被仰付候に付水帳詮議の処、文禄四未年御検地にては、遍田、野田、平山右三ヶ村水帳一冊にて御座候事)平山町永野家蔵 遍田村
○宝暦十二午年(一七六二)三月 河戸村午年宗門御改帳・川戸町鈴木家蔵 〃
○明和五子年(一七六八)十月八日 御触書写 〃
○安永三午年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控 〃
○天明三卯年(一七八三)三月 御鷹御用組合議定証文 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金野鹿狩人足の件) 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件) 遍田村
○文化八未年(一八一一)六月 北生実村・南生実村・一件済口証文畦之議定・浜野町宍倉家蔵 〃
○文政六未年(一八二三)八月 議定証之事(助郷問題の件) 〃
○天保九戍年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳之写 〃
○天保十四卯年(一八四三)十月 人馬助合一件(歎願訴訟の件) 〃
○弘化四未年(一八四七)七月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件) 〃
○嘉永三戍年(一八五〇)六月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村訴訟の件) 〃
○嘉永五子年(一八五二)十一月 乍恐以書付奉御歎願奉申上候(人馬助郷訴訟の件) 〃
○文久三亥年(一八六三)八月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件) 〃
○慶応四辰年(一八六八)三月 字中峠野出入済口証文別紙為取替写 〃
以上の資料は、いずれも本文中に「遍田村」とあって分村当時より町名に変更のないことを物語っている。