当町は、むかし千葉庄平山郷に属し、文禄四年(一五九五)には葛飾郡平山郷となって、文安三丙寅年(一四四六)三月の「東光院七仏薬師堂縁起」(1)には、「平山邑」とある。また、『倭名類聚抄』(2)には、「平山村は千葉郡に属す」とあって、『千葉大系図』(3)に、平忠常の子、常将の項で「平山寺を創す」と記され、『千学集』(4)には、「千葉胤持平山城に居城」とある。なお、『妙見実録千集記』(5)には「千葉輔胤延徳四壬子年(一四九二)二月十五日平山にて卒す」とある。
また宝永二乙酉年(一七〇五)平山村長谷部の住人、永野金右衛門家の成之丞氏の書写した『平山郷土史』(6)によると、「天長元甲辰年(八二四)九月九日、村人によって、平山字谷津山(いまの谷津)に平山神社が勧請せられ、当時は神明宮と称した」とあるから、西暦八二四年以前から開村していたことが推定され、平山の町名もその時分から相続されたと考えられる。
さて、次の資料によって、町名の移り変りを考えてもらおう。
○文安三丑寅年(一四四六)三月 平山村東光院薬師如来縁起・東光院蔵 平山村
○文禄四未年(一五九五) 西郷弾正平山村を検地・平山町永野家蔵 〃
○元禄十一寅年(一六九八)正月 下総国葛飾郡平山村差出帳・永野家蔵 〃
○元禄十一寅年(一六九八)二月 差上申一札之事・永野家蔵 〃
○正徳四甲子年(一七一四)十一月 平山村新畑検地之事 〃
○元文三戍午年(一七三八)七月 四作野絵図(土手境出入裁許の件) 〃
○宝暦十二午年(一七六二)三月 河戸村午年宗門御改帳・川戸町鈴木家蔵 〃
○明和五子年(一七六八)十月 御触書写 〃
○安永三午年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控 〃
○天明三卯年(一七八三)三月 御鷹御用組合議定証文之事 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の件) 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足の件) 〃
○文政六未年(一八二三)八月 議定証文之事(助郷歎願の件) 〃
○天保八丁酉年(一八三七)十二月 為取替申水砂野議定書之事(境界争論の件) 〃
○天保九戍年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳写 〃
○天保十四卯年(一八四三)十月 人馬助合一件(訴訟之事) 〃
○弘化四未年(一八四七)七月 乍恐以書付奉願上候(人馬助合の事) 〃
○嘉永三戍年(一八五〇)六月 乍恐以書付奉歎願奉申上候(人馬助郷差村訴訟の事) 平山村
○安政二卯年(一八五五)三月 乍恐以書付奉願上候(水砂野野火の事) 〃
○文久三亥年(一八六三)八月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷の事) 〃
○慶応三卯年(一八六七)七月 乍恐以書付御訴訟奉申上候(中峠野入会秣場出入の件) 〃
○慶応四辰年(一八六八)三月 字中峠野出入済口証文并別紙為取替写 〃
○明治四辛未年(一八七一)二月 字中峠野議定書 〃
以上の資料からみて、平山という村名は、むかしから変りなく今日まで続いてきている。
- 註1 「東光院七仏薬師堂縁起」 著者不詳、文安三年三月、平山町東光院蔵。
- 2 『倭名類聚抄』 源順撰、延長年間『改訂房総叢書』第五輯所収、昭和三十四年。
- 3 『千葉大系図』 著者不詳、寛永年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、昭和三十四年。
- 4 『千学集』 著者不詳、天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、昭和三十四年。
- 5 『妙見実録千集記』 著者不詳、安永九年以後の作、『改訂房総叢書』第二輯所収、昭和三十四年。
- 6 『平山郷土史』 伝金元某著、安政年間、平山町長谷郷永野成之丞書写本、平山町永野家蔵。