高田町(たかだちょう)

123 ~ 125/211ページ

 当町は、永享年間(一四二九~一四四〇)、いまから五百二、三十年前の開村で、その後分村したことはないようである。

 町名の「高田」については、資料が少なく不明である。この町は、都川の支流の水源で、谷津の一番奥になっている高地であるから、四囲の地形からとって名付けられたのではないかと思われる。貞享三年(一六八六)以降、戸田大学家の所領として、明治まで続いた。

 次に、資料から町名の移動をみる。

 ○寛永十九年(一六四二)八月   相渡申一札之事(とりばみ野争論の事)    高田村

 ○享保九辰年(一七二四)五月   一札之事(地境争論の事)           〃

 ○安永六酉年(一七七七)八月   乍恐以書付奉願上候事(印幡郡砂村鷹匠勤方の件)  〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月   御鹿狩御触書並御廻状控帳           〃

 ○文政十二丑年(一八二九)八月  下総国千葉郡野呂村差出帳・野呂町石井家蔵   〃

 ○天保八酉年(一八三七)     乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)     〃

 ○安政二卯年(一八五五)三月   乍恐以書付奉願上候(水砂野野火の事)    戸田山城守知行所高田村

 ○文久三亥年(一八六三)八月   差村一件願書写               高田村

 ○明治四未年(一八七一)三月   椎名下郷三ヶ村奉公人書上帳         つるまい藩支配所高田村

 ○明治九子年(一八七六)五月   高田小学校高田村常真寺に開校

 これら各資料のいずれも、「高田村」と記入されており、寛永以降、町名の変更は認められない。