当町は、永享年間(一四二九~一四四〇)、いまから五百二、三十年前の開村で、その後分村したことはないようである。
町名の「高田」については、資料が少なく不明である。この町は、都川の支流の水源で、谷津の一番奥になっている高地であるから、四囲の地形からとって名付けられたのではないかと思われる。貞享三年(一六八六)以降、戸田大学家の所領として、明治まで続いた。
次に、資料から町名の移動をみる。
○寛永十九年(一六四二)八月 相渡申一札之事(とりばみ野争論の事) 高田村
○享保九辰年(一七二四)五月 一札之事(地境争論の事) 〃
○安永六酉年(一七七七)八月 乍恐以書付奉願上候事(印幡郡砂村鷹匠勤方の件) 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 御鹿狩御触書並御廻状控帳 〃
○文政十二丑年(一八二九)八月 下総国千葉郡野呂村差出帳・野呂町石井家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七) 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事) 〃
○安政二卯年(一八五五)三月 乍恐以書付奉願上候(水砂野野火の事) 戸田山城守知行所高田村
○文久三亥年(一八六三)八月 差村一件願書写 高田村
○明治四未年(一八七一)三月 椎名下郷三ヶ村奉公人書上帳 つるまい藩支配所高田村
○明治九子年(一八七六)五月 高田小学校高田村常真寺に開校
これら各資料のいずれも、「高田村」と記入されており、寛永以降、町名の変更は認められない。