往古は、千葉氏の家臣・平河氏の所領であったので、領主・平河氏の姓をとって、村名を平川と改めたと伝えられている。
天正の頃、徳川家の所領となると、元和年中に一村を三分して、代官・野田三右衛門、旗本・林宗五郎、同・神谷主水の三家の相給地となった。
町名の推移を、資料を通してみると、
○寛永十七年(一六四〇)八月 相渡申一札之事(とりばみ野争論の事) 平川村
○元禄十五年(一七〇二)三月 佐倉藩領知郷村高辻帳 〃
○享保九辰年(一七二四)五月 一札之事(地境争論の事) 〃
○享保九辰年(一七二四)五月 一札之事(秣刈場境界争論の事) 〃
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級合の書上 〃
○文政十二年(一八二九)八月 下総国千葉郡野呂村差出帳・野呂町石井家蔵 〃
○天保十五年(一八四四) 御領分御林新田高改 土気庄平川村
○文久三年(一八六三)八月 差村一件願書写 平川村
○文久四年(一八六四)二月 当争議定書 平川村
以上のとおり、往古より平川村については変化はない。