誉田町(ほんだちょう)一丁目、二丁目、三丁目、

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 当町は、元和五己未年(一六一九)二月、平山村・辺田村から分郷して、野田原に新田を取り立て、御伝馬継場の村として問屋場ができて、「野田新田」と名付けられた。

 また、現在の誉田駅附近は、当時、往還が十字に交差していたので、「十文字原」と呼ばれていた。里人は、これに平将門の伝説を取り入れて、「十文字原」と名付けられたと伝えている。

 『南総酒井伝記』(1)には、「明応八己未年(一四九九)里見氏と土気勢が野田十文字にて戦ふ。これを野田合戦と云う」とある。また、「天正十八庚寅年(一五九〇)、小弓城主原胤栄、豊臣勢と野田十文字原にて合戦討死す。敗残の人人此の地に埋葬して小塚を築き胤栄を弔う、里人これを原塚と呼ぶ」とある。

 以上のように、古くから野田原、野田、野田十文字と呼ばれ、元和五年(一六一九)より「野田新田」となって、のち、いつか「野田村」と改まった。明治二十一年(一八八八)十月五日の『千葉郡町村分合調書』(2)によると、町村令発布の時、野田村附近の村々と合併し、野田村の鎮守八幡神社の祭神・誉田別命の神名を取って村名にしたと、その「新村名撰定上申書」に書いてある。

 千葉市に合併後の町名改正の時、誉田村野田を廃して、旧村名を取り上げ、誉田町一・二・三丁目と改めた。

 次に、町名の移り変りをみるべく、資料を別記する。

 ○明応八己未年(一四九九)    南総酒井伝記(1)『改訂房総叢書』第二輯所収    野田十文字

 ○天正十八庚寅年(一五九〇)   小弓城主原胤栄、豊臣勢と野田十文字原にて合戦討死

 ○元禄十一寅年(一六九八)二月  差上申一札之事(分郷被仰付候の水帳詮議)     野田

 ○明和五子年(一七六八)十月    御触書写                    野田新田

 ○安永三午年(一七七四)十月   小金一件諸入用割合控・刈田子町高梨家蔵      野田

 ○天明三卯年(一七八三)三月   御鷹御用組合議定証文・刈田子町高梨家蔵       〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月   乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事)・高梨家蔵  野田村

 ○寛政七卯年(一七九五)正月   日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵    〃

 ○文政六未年(一八二三)八月   議定証文之事(助郷の事)              〃

 ○天保九戍年(一八三八)四月   御領分田畑高反歩取調控帳写             〃

 ○天保十四卯年(一八四三)十月  人馬助合一件(助郷訴訟の事)            〃

 ○弘化四未年(一八四七)七月   乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事)       〃

 ○嘉永五子年(一八五二)十一月  乍恐以書付奉歎願奉申上候(人馬助郷差村の件)    〃

 ○文久三亥年(一八六三)八月   乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事)       〃

 ○明治四辛未年(一八七一)三月  下総国千葉郡椎名下郷三ヶ村高書上帳・高梨家蔵    〃

 以上の資料のいずれも、表題あるいは本文中に、野田新田、野田、野田十文字原とあって、町名の移動がわかると思う。