「千葉之庄椎名郷に属し、天正三年(一五七五)九月開村せられたり」と、『千葉郡誌』(1)に見える。
町名の起源については不明だが、『千葉郡町村分合取調』(2)によると、「上郷」と呼ばれる綜合体と「下郷」と呼ばれた綜合体とが、明治十七年(一八八四)の戸長役場所轄区域改定の際に綜合した。明治二十二年(一八八九)一月三十一日、郷名を取って「椎名村」と名付けられたが、これはそのうちの一部落である。
当町にある上行寺は、長享二年(一四八八)五月十八日、酒井小太郎定隆の布達で、日蓮宗に改宗したお寺である。一説として、『千葉郡誌』に、「享禄四年(一五三一)後奈良天皇の御宇、椎名村茂呂に覚王山上行寺が創建せられた」とある。これは中興開山の誤りではないかと思われる。
古くは、椎名家の所領と思われるが、徳川時代になって、寛永十九年(一六四二)、森川出羽守重俊が生実に封ぜられてからは、その所領となって、明治まで相続された。
当町の鴇田家の文書によると、「天正十四年(一五八六)に鴇田五郎左衛門は、千葉氏と共に九州から同道して、椎名郷上郷茂呂に住す」とある。
それ以外の文書によって、町名をみるに、
○長享二年(一四八八)五月 椎名村茂呂上行寺、酒井氏改宗令 茂呂村
○享禄四年(一五三一) 椎名村茂呂に上行寺創建『千葉郡誌』(1) 〃
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級分書上『改訂房総叢書』所収、森川紀伊守領分 〃
○安永三午年(一七七四)四月 下総国午御改宗門下帳・浜野町宍倉家蔵 〃
○安永三午年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控・刈田子町高梨家蔵 〃
○安永四己未年(一七七五)三月 宗門御法度書・高梨家蔵 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事) 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵 〃
○文政三年(一八二〇)四月 永代取極申印証の事・浜野町宍倉家蔵 〃
○天保九年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳・高梨家蔵 〃
○嘉永元年(一八四八)九月 村々高覚帳 〃
○嘉永二年(一八四九) 生実町妙印寺(廃寺)藤田政具作「半鐘」銘 〃
○嘉永五年(一八五二)十一月 乍恐以書付奉申上候 〃
以上の通り、開村当時から町名に変更のないことが考えられる。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『千葉郡町村分合取調書』 著者不詳、千葉県立中央図書館編「千葉県地名変遷総覧」所収、昭和四十五年。