古市場町(ふるいちばちょう)

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 千葉之庄椎名郷に属し、当町は街道沿いに発達してきた部落であり、その昔市場の開かれたことを伝承している。これが起因となって名付けられたものと思う。

 昔、千葉家の分流である椎名氏の治下にあった時、椎名郷は上郷、下郷の二郷に分れており、のち徳川時代にいたり、古市場を分立させて、上郷、下郷、古市場の三郷に分けられた。この時期は不詳であるが、椎名崎町の椎名神社が天平元年(七二九)に勧請されていることから考えて、旧椎名村は古くから開村されていたと思う。しかし、茂呂は天正三年(一五七五)に開村されたと『千葉郡誌』(1)にあることから考え合せて、各部落の開村には多少の差異があったと思う。

 古くは椎名氏の治下にあり、元和八年(一六二二)高室金兵衛支配地となり、寛永十九年(一六四二)に森川家の知行所となった。

 次に、資料を挙げて町名の移り変りをみると、

 ○正保四丁亥年(一六四七)十月  本行寺と千光院檀那論記            古市場村

 ○宝暦十一年(一七六一)五月   下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収、森川紀伊守領分  〃

 ○安永三午年(一七七四)十月   小金一件諸入用割合控・刈田子町高梨家蔵    古市場村

 ○天明三年(一七八三)三月    御鷹匠御用組合議定証文之事・高梨家蔵      〃

 ○寛政五年(一七九三)十二月   下総国千葉郡椎名下郷田方一人別帳・高梨家蔵   〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月   乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事)    〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月   日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵  〃

 ○文政三年(一八二〇)四月    差上申一札之事(泉谷出入の事)・高梨家蔵    〃

 ○文政六年(一八二二)八月    議定証文之事(助郷の事)            〃

 ○文政十三年(一八三〇)八月   高梨家文書・諸願書写              〃

 ○天保九年(一八三八)四月    御領分田畑高反歩取調控帳・高梨家蔵       〃

 ○天保十四年(一八四三)十月   高梨家文書・諸願書写              〃

 ○嘉永元年(一八四八)九月    高梨家文書・覚(村高取調)           〃

 ○嘉永二年(一八四九)七月    生実町妙印寺(廃寺)半鐘銘           〃

 ○嘉永五年(一八五二)十一月   乍恐以書付御歎願奉申上候            〃

 ○明治四年(一八七一)三月    椎名郷三ヶ村高書上帳・高梨家蔵         〃

 各書いずれも「古市場村」とあって、村名の変更は認められない。

 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。