千葉之庄椎名郷に属し、『千葉郡町村分合取調書』(1)によれば、往古は「富丘」と書かれた時代もあった。
また、当町の長徳寺は正保四丁亥年(一六四七)十月頃には、長福寺と称していたが、開基開山は不明である。しかし、寺の裏山墓地より、建武五年(一三三八)・貞治七年(一三六八)四月と刻された板碑が出土している。これから考えて、南北朝時代に当町附近は相当の繁栄な土地であったと考えられる。隣村・椎名崎の椎名神社は、天平元年(七二九)に勧請されている。また同所の熊野神社は天平十六年(七四四)に建立されていることがいずれも『千葉郡誌』(2)に記されている。
このように、古くから開けた隣村の影響で、当町も相当古くより開村されたと思われる。また、長徳寺も同様、古く創立されたと思う。この寺の通称〝小便鐘〟は由緒ある梵鐘で、はじめ、上総国菅生荘中須賀日吉山王宮の鐘として、宝徳元年(一四四九)に鋳造され、天文十四年(一五四五)十二月十七日、長徳寺の鐘楼にさがった。
鐘の追刻銘に、
「下総国千葉庄椎名富岡山長徳寺願主宥伝
薬師如来鐘 一口
天文十四乙巳年十二月吉日」とある。
薬師堂の棟札によると「文政十二年(一八二九)三月、富岡村長徳寺薬師堂再建権大僧都法印観光」とあって、寺の棟札には「安政三年(一八五六)住持普厳法印」と記されたものと二枚が所蔵されている。
寺の過去帳には、良弁法印=元禄五年(一六九二)十二月寂=が寺の中興の人としてある。以上のように、古い部落だということがよくわかると思う。
千葉常兼の六子・胤光が椎名六郎と称して椎名城に居城し、また、治承のころ、子息の胤隆が椎名の六郎太郎と称して源家に仕え、戦功のあったことが『千葉大系図』(3)に出ている。古く椎名家の所領であったのが、のち、寛永十九年(一六四二)以降は森川家の知行所と変った。
次に資料より町名の推移をみると、
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級分書上 森川紀伊守領分 富岡村
○安永三午年(一七七四)二月 下総国千葉郡午御改宗門下帳 〃
○安永三午年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控 〃
○安永四乙未年(一七七五)三月 宗門御法度書 富岡村長徳寺
○文政十二年(一八二九)三月 薬師寺再建棟札 葛飾郡(今千葉郡)上郷富岡邑
○天保九年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳 富岡村
○嘉永元年(一八四八)九月 覚(村高取調) 〃
○嘉永五年(一八五二)十一月 乍恐以書付御歎願奉申上候 富岡村
いずれの古文書にも、「富岡村」とあって、町名の移動のないものと思う。
- 註1 『千葉郡町村分合調書』 著者不詳、千葉県立中央図書館編『千葉県地名変遷総覧』所収、昭和四十五年。
- 2 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 3 『千葉大系図』 伝千葉重胤著、寛永年間、『改訂房総叢書』第五輯所収、昭和三十四年。