当町は、千葉之庄椎名郷下郷に属し、町名に関する資料、伝承は見当らない。附近の村々の項で述べたように、当町も千葉家の一族・椎名氏の所領で、徳川時代寛永十九年(一六四二)森川出羽守重俊が生実の地に封ぜられてより、明治まで続いた。
町名の椎移を資料からみると、
○明暦二丙申年(一六五六)二月 刈田子村田畑屋敷名寄帳・刈田子町高梨家蔵 刈田子村
○延宝七年(一六七九)九月 豊前村未の新田検地帳・高梨家蔵 〃
○宝永六年(一七〇九)十一月 下総国千葉郡椎名下郷刈田子村検地帳・高梨家蔵 〃
○延享四年(一七四七)二月 椎名下郷刈田子村田畑壱人別帳・高梨家蔵 〃
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収 森川紀伊守領分 〃
○安永三午年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控 下郷刈田子村
○安永四乙未年(一七七五)三月 宗門御法度書・高梨家蔵 刈田子村
○寛政五年(一七九三)十二月 椎名下郷田畑壱人別帳 下郷刈田子村
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事) 刈田子村
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事) 刈田子村
○文政三年(一八二〇)十一月 下郷刈田子村辰年御年貢皆済目録・高梨家蔵 〃
○文政六年(一八二三)九月 御請書・高梨家蔵 〃
○天保八年(一八三七)三月 差上申御請書之事(物価値上り救済の事)・高梨家蔵 〃
○天保九年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳 下郷刈田子村
○嘉永元年(一八四八)九月 覚(村高取調の事)・高梨家蔵 刈田子村
○嘉永二年(一八四九)正月 御請書之事・高梨家蔵 〃
○嘉永五年(一八五二)十一月 乍恐以書付御歎願奉申上候 〃
○安政三年(一八五六)八月 大風にて本家皆潰の者へ御金子被下置候控・高梨家蔵 〃
○安政六年(一八五九)二月 高梨恕平椎名村刈田子村に生る・『千葉郡誌』 〃
○文久三亥年(一八六三)八月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事) 〃
○明治四辛未年(一八七一)三月 下総国千葉郡椎名下郷三ヶ村五人組御改帳・高梨家蔵 〃
○明治四辛未年(一八七一)三月 下総国千葉郡椎名下郷三ヶ村宗門御改帳・高梨家蔵 〃
以上、諸書を検討してみると、明暦二年(一六五六)以降、刈田子村の村名については変更は認められない。